シンドラーのリスト

スティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を観る。

この映画をはじめて観たのは小学三年生のお正月だった。当時、アンネ・フランクをきっかけに、ホロコーストに没頭していたわたしに、母がレンタルビデオ屋で借りてきた。今回、クレジットでR指定が設けられていることを知り、おどろいたが当然のことだと思った。わたしはこの映画を観てから、ゆうに半年は不眠と悪夢にうなされたのだから。生粋のこわがりのわたしに、この映画を観せた母も無謀すぎる。

けっきょく、九歳のときは、後編のとちゅうで観るのを断念した(といっても、残虐なシーンは前半に集中しているのだけれど)。その日、わたしは生まれて初めて一睡もできない夜を味わった。あのとき目撃した、片手のない老人が射殺されるシーンほど、長くわたしのなかにとどまった恐怖はひとつもない。

 

第二次世界大戦についてわたしのおもうこと。

ベルイマンの『冬の光』を思い出す。この映画のなかで、ある漁師が自殺をする。かれは、新聞で中国が原子爆弾を作っているということを知り、それから口を閉ざしてしまう。そして、主人公である牧師とのみじかい対話のあとに、みずからの頭をライフルで撃ちぬくのだ。

神を信じられなくなった主人公の牧師は、自殺した漁師を羨望したのではないかとおもう。すくなくとも、わたしはかれの愚直さに羨望した。大事な家族があり、まっとうに生きてきたその漁師が、はるか遠くの中国の軍事行為に、すべてを諦念したのだ。

 

よいこともわるいことも、あらゆる事象を、そのままの状態ですべて感じられることを、わたしはいつも思い描く。そんな望みがほんとうに叶ったら、気が狂ってしまうのだろうけれど。

アウシュヴィッツもそのように感受しなければいけないのではないか。ベルイマンの描いた漁師のように、太刀打ちのできない事実を目の前にしたとき、わたしたちは死すべき存在にならなければいけないのではないか。しかしそうはいかなかった。ホロコーストの事実に、ときに気持ちを支配されることもあるけれど、わたしは自殺を考えたりなどはしない。アウシュヴィッツにとって、歳月など意味をなさないものであるはずなのに、現代人は、ある意味これを時間とともに乗り越えてしまったのだ。だからアウシュヴィッツは一般公開されたのではないか。それは、ホロコーストを起こしたのは、かれらがナチスドイツだったからではなく、ただの人間であり、わたしたちはその可能性をおなじ生命体というレベルでしっかりと抱いているからなのだろう。

 

第二次世界大戦を、教訓と形容したり、平和学習に用いるのは、あまりにも非人道的ではないかと思う。すくなくともわたしは、大空襲をアニメ化した教材を小学校で見せられたときも、そこから平和を願うきもちにまで感情は飛躍しなかった。

テオドール・アドルノの有名なことばに、「アウシュヴィッツ以降、詩を書くのは野蛮である」ということばがある。解釈はさまざまであろうが、わたしはこのことばをきくと、解放されたのちに、自殺をしたユダヤ人たちのことを思う。

 

映画について。

九歳のときには気づかなかったことだが、俳優陣が傑出していた。アーモン・ゲートを演じたレイフ・ファインズには、毎度のことだが脱帽してしまう。最後の処刑のシーンは、じっさいに残っている映像をもとにして演技しているのだろうが、すごい臨場感だった。ぶくぶくと太ったおなかも不気味ですごかったけれど。

会計士イザック・シュターン役のベン・キングスレーもすばらしいこまやかな演技で、繊細さの表現がひじょうにするどく、かれの存在に、シンドラーがやや霞んでしまっていた。おおきな瞳がとても美しく、ときおりまるでおどおどとした少女の瞳のように輝いていて、かれを虐殺の現場にさらしていることがとて耐えがたかった。主にかれに感情移入しながらこの映画を観進めた。

それとパールマンとスピルバーグ!

パールマンのヴァイオリンが、各所で流れるのだけれど、これにはほんとうに胸がいっぱいになった。パールマンの音はごく華やかでやわらかくて、かれは唯一にこやかにヴァイオリンを弾くヴァイオリニストです。パールマンの名は、イツァークと表記されるけれど、じつは、イザック・シュターンの名とおなじ綴りで、イスラエル生まれのユダヤ人。

 

この映画のいちばんすばらしいところは、大衆向けであるということで、スピルバーグ映画であるということだ。これをポランスキーなんかが撮ってしまえば、きっとおそろしい放映禁止映画になってしまったに違いない。

九歳には耐えがたい内容ではあったが、けっきょくガス室のシーンもなく、有名な悲劇的なエピソードもあまり盛り込まれていない。しかしこの映画は、アウシュヴィッツ強制収容所などの絶滅収容所を扱ったものではないし、あくまでシンドラーの映画であるのだから、ときどき耳にする歴史修正主義者という批判は的外れだとおもう。