修道女

ジャック・リヴェットの『修道女』を観る。

 

リヴェットの訃報を知る二日前に、この映画を自宅で観た。
あいまいな枠ではあるけれど、わたしはフランス・ヌーヴェルヴァーグの映画たちにずいぶん大きな憧れをもって10代を過ごしてきた。とくにリヴェットはとくべつで、わたしはこのひとの映画が、個人的に好きなのだと確信していた。
個人的に、ということばを正確に表現するのはとてもむずかしい。
彼の映画がじぶんの人生にもろに入り込んできて、その100%はじめての物質に、ぼうぜんとしてしまう感じ。はじめてリヴェットの映画、『セリーヌとジュリーは船で行く』を観て、映画が終わったあと、あのキッカイな屋敷からぽんと現実に放り出されたとき、烈しく心細く、不当だと思った。わたしをあそこから切り離すなんて。あんなにも馴染んでいたのに。
わたしはあの夢うつつのせいで、まともに生きていけなくなってしまったのではないかと本気で思うことがたびたびある。学校やら予備校やらを、あっという間に四つも退学してしまった。
というふうに、わたしはジャック・リヴェットに夢中だったわけであります。彼が、ある程度の本数の映画を撮っていてくれて安心する。短編も多いので半分以上は観たことのない映像であり、この際、出来栄えはたいして重要じゃないのだ。個人的に好きだというのは、そういうことなんだとおもう。

 

『修道女』の主演は若き日のアンナ・カリーナで、彼女の魅力をたっぷり味わえる。この映画での彼女の熱演にはおおいに驚いた。
「アンナが女優みたいなことしてる!」
アンナを完成された象徴としてわたしは愛しているけれど、いい女優だと思ったことは一度もなく、やはりゴダール映画の演技をしているとは言いがたいあの光景に慣れてしまっていたので、この映画で喜怒哀楽を一所懸命に表現しようとしているアンナには思わず笑みがもれた。
原作は、18世紀のフランスの文学者ドゥニ・ディドロの同名小説で、舞台は1757年のフランスである。
ディドロのこの小説は読んでないけれど、作中に出てくるクレジットから想像するに、映画の筋は原作の主題からはやや外れていて、アンナ・カリーナ演じるシュザンヌの心情描写がそのまま映画の流れに反映される。

 

シュザンヌは、高潔で意志が強い女性という役柄で、母親の不義の子であることから、慕っていた両親に散々なことを言われ、無理やり修道院に入れさせられる貧乏貴族の娘。こんなにかわいそうで不憫な女性を、アンナ・カリーナが演じられるわけないと思って観ていたけれど、やはり多少の違和感は最後まで残った。修道服から煙草を取り出して、すぱすぱ吸いしだしそうな雰囲気が残っているのだ。いじめられているシーンでも、とつぜん相手を平手打ちするんじゃないかという目をしているし。
それでも、薄化粧だからか、修道服効果なのか、こんなにかわいいアンナ・カリーナを見たのははじめてだった。怒っていたり、悩んだり、落ち込んでいるときのしぐさが、こどもっぽいというか、いじらしいというか、やっぱりむすくれた顔がこの女(ひと)の魅力だなぁと思うに至った。ほんとに、ファンのひとは必見のアンナ・カリーナ映画。

 

ジャック・リヴェットは、よく映画に字幕を入れるけれど、この映画も、最初に制作意図のようなことに活字で触れている。不用意に物語に介入したり、説明的なことをするのを嫌うのがふつうの映画だし、リヴェット以外の映画では、わたしもそっとしておいてほしいと思うのだけれど。
リヴェット映画でよくある「次の日」とか「土曜日」とか、そういう類の意味のない字幕が、わたしはたまらなく好きだ。造作のない手法だが、わたしはこれによってますます映画の世界にのめりこんでしまう。役者が観客に話しかけてきたりする演出などは、たいしておもしろくもないしぜんぜん好きじゃないのだから、これはふしぎな効果と言っていいと思う。

 

いままで観たリヴェットの映画のなかでは、初期の作品ということもあり、オーソドックスな映画だったけれど、だからこそ浮かび上がるリヴェット的な要素も感じられた。どのシーンもおなじ色、おなじテンポ、映画と観客はおなじ距離感。まるでスノードームのなかの出来事のように、それはあまりにも完結しすぎている。

 

ラストのシーン、指揮棒をしっかり振り切ったような潔さがあって、瞬間に心から満足しました。
今年もたくさんいい映画を観ましょう。