少年と自転車

ベルギーの映画監督ダルデンヌ兄弟の『少年と自転車』を観る。

ダルデンヌ兄弟は、存命の映画監督のなかでもっとも評価の高い映画監督のひとり(1組)であることは、疑う余地がない。
カンヌ映画祭では、パルムドールを二度受賞しているし、この作品ではグランプリを獲っている。華々しい快挙!
わたしはカンヌ映画祭が、いちばんいい映画祭だと思っているし、パルムドール受賞作を観るたびに、たしかにパルムドールにふさわしい映画だとほぼ毎回満足している。
今後も米アカデミー賞が、彼らの作品に何かしらの賞をあげ損ねたら、やっぱりどうしようもない映画賞だなと言われるに決まってる。

と言っても、わたしはまだダルデンヌ兄弟の映画を2本しか観たことがないので、アカデミー賞に文句をつける前に、ちゃんと観よう。
高校生のころに、二度目のパルムドール受賞作『ある子供』を観た。この映画と比べると、今回観た『少年と自転車』にははるかに深い理解がうまれた。

『ある子供』のあの青年の姿を、わたしは自分の生活のなかで見たことがないのだ。それは単に、わたしが世間知らずなだけで、あのような若者たちが、たしかに日本にも存在していて、残酷なかたちでその存在が明るみに出ていることは知っている。けれど、正直なところ、関わりあったこともないのに、彼らのなにがわかるというのだろうか。共感はできなかった。想像力もうまく働かなかった。
あの青年はおどろくほど自然で、シンプルで、それはほとんど神々しいまでだった。赤ちゃんを売ってしまった彼に、ガールフレンドが気を失うシーンも圧倒的だった。絶望的にカメラが無表情だった。ベルギーの景色は、人工物がぼやぼやとした明るい色で、それがグレイッシュな風景と相まって、いつももの悲しい。

『少年と自転車』について。
ダルデンヌ兄弟の映画は、技巧的な演出もないし、これといって特徴的なカメラでもないけれど、役者の演技指導はずいぶんとこだわっているのではないかと思う。極端な感情表現はまずないし、表情をアップで捉えることも少ないから、観ている側は、役者と距離が縮まることもない。
主人公シリルを演じたトマ・ドレという少年の演技もとてもよかった。こんなふうにせっかちで力の加減ができない男の子、小学校にいたなぁ、とテレビ越しに怯えてしまうくらい。あの少年は、好感を抱かれないように描かれていて、彼が父親に拘泥して、突き放されても、観ていてあまり不憫だとは思いづらい。どちらかというと、彼の教師やホームの指導員たちは大変だぁという感想が強かった。
そこにサマンサが登場すると、こちらの感情も変化する。このサマンサは、自分の美容室を持つ自立した女性で、父親が引っ越してしまったアパートで、かんしゃくを起こすシリルと、偶然に出会う。そこからふたりの交流が始まるのだが、どこまでも横暴で扱いづらいシリルに対し、サマンサは聖母マリア様ばりに寛容で、慈悲深く、ほんとうによくシリルの感情を汲み取っているのだ。
この映画を観て、「こんな女性はそうそういないから、この映画は非現実的だ」と思うひともいるかも知れないが、どちらかというと、傷ついた子供を救うのに、これだけのパワーが必要なのだとわたしは感じた。

休日だけ里親になったサマンサのもとで、不良とつるみ、サマンサが止めるにも関わらず、彼女を傷つけてまで逃走し、不良に言われるがままに強盗を働いてしまう。そして強盗に失敗し、不良にさっさと見限られると、サマンサのもとへ帰り、「ずっと一緒に暮らしたい」と言う。そんなシリルに、サマンサはごくあっさりと、乾いた調子で「いいわよ」と告げ、「頰にキスして」と言うのだ。サマンサは、シリルがすでに警察から特定されて、捜されていることも知っていて、賠償金を払うことになるのも分かっていて。サマンサは、シリルが一緒に暮らしたいと言えば、いつでもふたりで暮らすつもりでいたのだ。ただ、シリルから言い出すのを待っていたのだ、とわたしはそう解釈した。
わたしはこのシーンにとびきり感動した。ほんとうにいい脚本だと思った。シリルの父親の描き方も抜群だった。
(この映画を観て、強烈に思ったこと・最近の邦画の、不幸にできるものならどん底まで不幸であわれにするようなやり方は、ほんとうに廃れればいいのに。)

音楽もとてもかっこうよかった。要所ごとに同じフレーズが短く挿入される、ミニマムで主観を排した表現。
音楽のまったくない映画も、最近は多いけれど、そういうものよりも、こういう音楽の挿入は研究がされていると思う。

今年に入って観た映画のなかでは、いちばんいい脚本の映画だったな。映画自体も素晴らしかった。映像芸術を媒体として、社会問題を見せたもので、ダルデンヌ兄弟の映画ほど優れたものを、わたしは観たことがない。

とってもおすすめの映画です。