エル・スール

スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの『エル・スール』を観る。

 

エリセの映画に惹かれるひとの多くは、その色彩が好きなんじゃないかな。
わたしの場合は、はじめてヴィクトル・エリセの名前を知ったのは、『ミツバチのささやき』のワンシーンの写真をみたときで、まさにその色彩に惹かれた。とても現代的だと思った。スマートフォンで撮影して、フィルタアプリで加工したものに似ている。光源のありどころが分からない絵だ。
その写真は、子供たちが焚き火をとびこえて遊んでいる中盤のシーンのもので、ひとりの女の子がちょうど焚き火の真上で、前後不覚のように破顔して跳躍している姿を写したものだった。映画じゅうに満ちていた死の気配を、その写真からも感じたのを覚えている。

 

『エル・スール』は『ミツバチのささやき』ののち10年近く経って撮られた映画だが、わたしは『ミツバチのささやき』よりもよっぽど『エル・スール』のほうが良作だと思う。
言語矛盾だが、どこもかしこも傑出していいシーンだった。ネーデルランド絵画のように、黒がひたすら美しくて、色彩はほとんど輪郭線をあふれるようにやわらかく豊かで、時間そのものがほこりをかぶっているかのようだった。

 

たびたび、泣き出しそうな気分になった。
この映画は、かなしいお話しなのだ。純度の高いかなしみが与えられ、観終えて、なんの憚りなく「かなしいね」といえた。ストーリーは完ぺきだった。あの父親が死ななかったら、家族が再生したら、などとちがう筋道を考えることも、そもそもストーリーを反すうすることもなかった。

 

以前にも同じようなことを書いたが、エリセの映画はストーリーが登場人物の言動にあまり依存しない。
それゆえか、そのせいか、登場人物たちが、かなしいほどまでに聡明なのだ。聡明であり、口を閉ざしつづけること。正確にいうと、沈黙というものが、つねに微量のかなしみを帯びるものだろう。

 

少女とは、知らないふりと知っているふりをしすぎるいきものなのだと思う。わたし自身はそうだった。少年に関しては、経験も関わりもないので分からないけれど。
わたしは、どちらかというと知らないふりをしすぎてしまい、そのせいで実際その物事がぜんぶ一括してほんとうによく分からなくなってしまった。これはけっこう驚異的なことで、本気で分からなくなった今となっては、わたしはその無知をある意味歓迎している。それで、わたしは安全とか平穏を得たのだ。(具体的にはかけないけれど・・)

 

エストレーリャの一家に訪れたあのしずかで圧倒的な不幸に、彼女はいったいどうやって太刀打ちができたというのだろう。だめになっていく父親とホテルで昼食をとるシーン。あのシーンのことをおもうと今でも胸が苦しい。まるで天国のようにまっ白に明るく、おだやかな風景だった。レストランを去ろうとする娘に、片手をあげておずおずと微笑んだ、あの父親の最期の姿。彼を責めることなんて、いったい誰にできようか。
わたしは、エストレーリャがあの場で、父親に最大限のいつくしみを示したのだと確信している。父親は、みずからだめにすると決めたのだ。究極的にものがなしいシーンだった。
去年観た映画のなかでは、いちばんよかったかも知れない。タルコフスキーの『ストーカー』と並んでよかった。

 

父親役は、名優オメロ・アントヌッティ。テオ・アンゲロプロス(いつまで経ってもみれない!!)の『アレクサンダー大王』の主役のひとです。きらきらした眼と、秀でた額、ゆったりとした深みのある声、この映画だけで大好きになった。ただの偏見だけど、とてもイタリア人とはおもえない憂いのある俳優。

 

さいごに。
スペイン内戦が、この映画でもモチーフになっている。
ときどきおもうのだけれど、若者にいちばん必要なものは革命運動なのかもしれない。
好景気も、ビートルズも、ジャズ喫茶も、肩パットも興味ないけれど、革命だけはちょっとあこがれてしまう。安保闘争じゃないです、革命です。