アニー・ホール

有名作について書くのは億劫だ。
名作と有名作というのは、同一視できる場合もあるだろうけれど、もちろんそうでないことも多い。
有名作とは、知名度が高いということなのだろうが、知名度が得られる理由は、その映画の魅力を大多数が高い割合で理解できる、ということなのだと思う。
よって、有名作について書くと、「わざわざ書かなくても観りゃ誰だって分かるよ」と、つまらなくなってしまう可能性が非常に大きい。(毎回わたしの文を読んで、そういう感想を抱いてる方がいるなら、偉そうにすみません。)
べつにそれでもいいのかも知れないが、やはり抵抗はある。たいした文章ではないが、まあまあ時間を割いて書いているわけだし、すこしは実のあるブログにしたいと思っているわけで。そんなこんなで、有名作について書くのは、わたしにとってはけっこう大変なことなのだ。

『アニー・ホール』はウディ・アレンの映画ではおそらくいちばん有名で、1977年のアカデミー賞では、『スター・ウォーズ』についでたくさん賞を受賞している。
好き嫌いはべつとして、内容がてんこ盛りのわりには、狙いがほぼすべていい形で成功していることが見て取れる。それで、好き嫌いでいうとわたしはあまりこの映画が好きではなかった。

ウディの映画はまだ6本くらいしか観ていないが、有名どころから観ているせいか、外れることもなく、自分の個性ありきで映画を撮れる優秀な映画監督だと思っていた。そのなかでも、『アニー・ホール』がとくべつ有名な理由は、観ていてよく分かる映画だった。

バランスがほんとうによく取れているのだ。いままでにウディの映画を観ていて、あまりに毒っけがつよいというか、ウディの実生活をまざまざと見せられているようで、嫌気が差すことがたびたびあったが、この映画はフィクションであるという安心感をつねに感じられ、快かった。それは、ミア・ファローが出てこないことも大きいと思う。別れているにせよ、ダイアン・キートンとウディは良好な仲なのだろうから、ニューヨークの街角で起こるラブストーリーとして、フラットな気もちで観ていられた。

この映画が有名である大きな理由に、アニーのファッションスタイルがある。たびたび女性誌でも取り上げられているが、わたしはこれがぜんぜん好きじゃない。
どちらかというと、女性誌に対して反感を覚える。アニーのファッションならまだしも、ウディのファッションを真似しようみたいな企画を目にしたことがあるが、正気?と思ってしまった。女性誌は、みずからの責任について、ときどきは考察する必要があるのではないか。
この映画ではかなり魅力的に描かれているが、そもそもダイアン・キートンはあまり好きな女優ではない。主演女優賞も、みるからに取りやすそうな役柄ではある。彼女は監督業にも熱心で、わたしも彼女が製作や監督した映画を2本ほど観たことがあるが、なんとも思わなかった。理由はとくにないが、巷での評価ほどに受け入れられない。
おもしろい演出が多々見られるが、1977年の前にほかの監督がやってるじゃない、と思うので、特筆はしない。アメリカの商業映画で用いられたということは大きいかも知れないし、それがコメディに汲みこんだというのが受けたのかな。ウディの映画には、フェリーニの影響をよく感じる。

けっこう重大なことだが、最後までわたしはアニーのことがよく分からなかった。性格もいまいち掴みづらい。ああいうファッションをしたがる女性でありながら、あんなにメロウな歌うたいであることも、ウディに惹かれたことも、そのわりには常識的なことろも、まあ、すべてただなんとなくなのだろうが、映画では説明があまりにされていない。最初、テニスコートでアルビーと出会い、その後アプローチをかけるあたりの変人っぽさが、途中で消滅するのもよく分からなかった。男ありきの人生に対して、疑問を抱かないような女性にも見えないし。何回か観れば分かるのかな?
それにくらべてウディの役柄は安定していた(いつものことだけれど)。わたしはウディと似ている点が多いので、かれのことは否定ができない。
彼の映画は、いつも自分のはなしばかり、と言われても、女の描き方は、毎回すこしずつ違う魅力を含んでいるわけで、それだけでも彼の映画を観る価値はある。
人には悪趣味だといわれるが、わたしはウディの顔が好きだ。三大男のひとの好きな顔は、ウディとシュワちゃんと大瀧詠一。共通点がなさすぎておかしい。(どうでもいいですね)

ストーリーはとてもよかった。アニーとアルビーがふたり並んでいるシーンは、どれも名作の理由であるように映画らしさに満ちていた。
こんなふうに人と対峙してみたいものだ。愛していて、疎んで、後悔ばかりして、小さなあきらめをいくつもつけながら、進んでいく。
この映画の有名なせりふに、「愛とサメは似ている。常に前進していないと死んでしまう」とあるけれど、わたしが思うに、進むことよりも、思い出せなくなることのほうが重要なんじゃないかな。もしすべてを記憶して、それを完璧な状態で保持することができるひとがいるのならば、愛はそこでは生きていけないような気がする。

ここまでだらだら書いておいて、じつはあまり記憶に残る映画ではなかったので、ほぼ想像です。