魔術師

ここ最近のわたしの映画鑑賞はベルイマン率が高いなぁ。
DVDの販売が一気に増えたから、なんとなく観ているのだけれど、ベルイマンの映画はなんとも感想が書きづらい。
理由はよく分からないが、ことばが尻込みするのだ。

この『魔術師』は、ずっと観たかったベルイマン映画の一本。ダイレクトな題名に惹かれて、期待していた。
こわいやら可笑しいやらで、鑑賞後はなんだか疲れを感じた。さいきんはコメディタッチのベルイマン映画を観ていなかったからかな。
といっても、そういう映画でほんとうに笑えるわけではないんだけれど。

ベルイマンは、固定された俳優陣を使うので、『魔術師』に出てくる登場人物たちは、だいたいなじみがある。
とくに主役と準主役のマックス・フォン・シドーとグンナール・ビヨルンストランドは、親近感さえ感じるすきな俳優だ。
マックス・フォン・シドーは、スターウォーズの新作にも出演していたようで、俄然観たくなった。でもDVDがレンタルされて、旧作になってからでいいや。

ふたりとも、いつもいい仕事をしている。どちらの風貌も独特で、これは北欧の俳優によく感じることだが、映画的というよりは、舞台的に感じられる。
俳優というものを職業的に捉えているように思われて、わたしはそういうところがすきなんだと思う。だから、いつ観ても彼らはぞんぶんに仕事をしている感じを受ける。

この話しは、かなり非現実的というか、なかなか現実に起こりうる話しではないのに、そういう設定の割りには、だれの胸にもきっと存在するものを真正面から描いている。
そういう意味でも、わたしが今までに観たことのあるベルイマン映画に限っての話しだが、こんなにも共感できる人物像の主人公ははじめてだったかもしれない。
わたしは幼少期の気持ちを思い出した。どうでもいい嘘ばかりつく子どもで、嘘をつくことに対して、なぜ罪悪感を抱かなければいけないのか、理性で反抗していたのだが、それでも、嘘がばれたり白状せざるを得なくなったときは、恥じ入って狼狽した。あのころの気持ち。
いまでもどうでもいい嘘ばかりつく。大人なので罪悪感なんて抱かなくなったのだけれど。

思うに、ひとは嘘がばれて恥じ入るのは、嘘をついたこと自体にではなく、真実を隠さざるを得なかった自分に対してなのだろう。
わたしはそうだった。いつも自分のためだけに嘘をついていた。自分をよく見せたかったのではなく、自分を現実とは違う、すてきなところへ置いておきたかったから。だから、罪じゃないとはっきり思っていた。

ベルイマンは、多くの人間を同時に描く能力が極めて高い一方、ひとりの人間の内面の奥深くを、すっぽりと見せきってしまうという離れ業をいつもやってのけている。並の群像劇では、これはなかなか両立しないことだと思うが、ベルイマンは毎作品で、これができてしまうんだからすごい。
『ファニーとアレクサンデル』などは、とくにそれが顕著で、大好きな作品のひとつ。ここ数年のクリスマスの夜は、この映画を観ている。

それと映像について。
モノクロのうつくしさはベルイマンのもの。とくに最後の見せ場、医者(グンナール)と魔術師(シドー)の屋根裏での対決はおもしろい映像だった。
シドーの感情の読み取れない表情と闇の不気味さが相重なって、現実なのかグンナールの幻想なのか、観客は判別できなくなる。
けっきょくは現実だったのだが、そこにシドーの力ではなく、グンナールの恐怖心により、幻想めくというのはとてもおもしろい描き方だったと思う。
ひとは、おそれることにより初めて、魔術に出会うことができるのかもしれない。どんな人間もどこかでオカルト的なものへの恐怖を持ち合わせていて、魔術師とは、単にそれを引き出すのがたくみな人物なのだ、ということが分かる。
そういう意味で、ベルイマンももちろん魔術師なのだろう。

そのオカルト的な映像ののち、きわめてあっさりと、主人公は魔術師の仮面をかなぐり捨てて、きわめて即物的なものいいで、医者に金を恵んでくれと要求する。
その変貌っぷりに、医者はたじろぎはするが、それでもわずかな勝利感は得たようで、軽蔑をこめたまなざしを魔術師に向け、お金をその足元に転がす。
得も言われぬ気持ちにさせられる。まるで解放されたかのようだった。このシーンは強力だった。

傑作とは書いてみたものの・・傑作なのかなぁ。わたしはもっといいベルイマン映画はたくさんあると思う。