仮面/ペルソナ

ベルイマン映画の常連であるリヴ・ウルマンとビビ・アンデショーンが、ベルイマンの映画にしては華美な雰囲気で登場する。
この映画で、リヴ・ウルマンは初めてベルイマン映画の主役を張ったらしい。よってこんなに初々しくきれいなリヴを初めて見た。ほかに観た映画では、やつれて陰鬱な役柄ばかり演じているから。
この作品では、突然病んだ名女優という役柄を演じていて、ブリジッド・バルドーみたいな髪型をして、洗練された衣装を着ている。実はあまり好きな女優ではないが、この映画のリヴは魅力的だった。
そしてビビ・アンデショーンも、ジーン・セバーグと雰囲気が被るような、ほかの出演作以上に美しく描かれていた。騒がしい田舎娘の役柄が多いと思うが、この作品では都会的な魅力を湛えた女性を演じている。こちらは女優をつきっきりで看病する看護婦役である。

冒頭のモンタージュは、シュールレアリスム的で、ダリの映像を思わせる。ここに登場する死体めいた少年は、彼女らが堕胎した子をイメージしたものなのだろう。寓意をふんだんに含んだ技巧的な映像で、それでいて白黒が単純に美しかった。

この映画は、怪奇的な物語で、最終的に、この女たちはいったい実在するのか?それともどちらかはどちらかの幻想の産物なのだろうか?という謎につき当たる。
解釈は何通りか存在すると思うし、それはベルイマンの意図でもあると思うので、ここではとくに触れないことにする。うまくまとめられないし。

ただどちらにしろ、相手を喰ってしまおうとする、この女優ふたりの演技はすごかった。
ふたりとも、じぶんが現実であり、相手が幻想なのだと思い込み、そして相手を消滅させてやろうとするその狂気の演技にはこちらも追い詰められるほどで、映画が終わったときには安堵感さえあった。
脚本にゆるみがないのだ。いつもピンと張り詰めていて、それぞれの台詞は意味を持ちすぎている。どうしてこんなに隙のない脚本を編むことができるのだろう。とくにこの映画は、ベルイマンにしてはめずらしく登場人物が少なく、たったふたりしかいない世界でこの脚本が紡がれると、精神的負荷を感じるほどだった。

ベルイマンの戯曲的才能のゆたかさにはいつも脱帽してしまう。その才能は、詩的能力というよりも、論理的能力なのであって、だからこそ映画に特有の緊張感が生まれるのだと思う。
鑑賞してしばらく経つので、なにも引用できないのが残念だけれど、すさまじい応酬のような台詞群に、しばらく息を殺してしまった。まるで蜘蛛の巣のような、秩序の見えない整然さを見出す。

この映画のキーワードは「ドッペルゲンガー」である。

ちょっと脱線するが、わたしは他人に似ていると言われることがよくある。ひとと知り合うと、二言目には「知り合いの○○に似てる」と言われるのだ。
10代のころは、よく男の子に似ていると言われた。「弟に似てる」「いとこ(男)に似てる」「小学生のときの担任(男)に似てる」等々。
それでもしばらく一緒にいると、「最初は似てると思ったけど、ぜんぜん似てなかったや」と訂正されるのだが。

もうひとつ不思議なのは、ふいに知り合いに会っても、たいていの場合は気づいてもらえないこと。
それどころか、たとえば休日に街でたまたまクラスメイトに会って、声をかけても、わたしだと気づいてもらえるのに、ゆうに20秒くらいかかる。
それで、「いや、ほんとに気づかなかった。びっくりした」と半笑いで言われ、わたしは複雑な気持ちになる。

成長すればするほど、じぶんの外見の特徴が薄れていくのは自覚している。たしかにわたしは平凡ななりをしてるし、中肉中背だし、存在感がないのかもしれない。妙な詞になるが、認知度が低いというのはすこし悲しいことである。
アイディンティティのようなものが、ちょっとだけ傷つくというか。

「ドッペルゲンガー」というのはだから、端的に考えれば、アイディンティティをおびやかされることがおそれる原因なんじゃないかな。
じぶんという他ならぬ存在への認識が、危険にさらされる。信じていた概念がひっくり返させるということ。
終盤、やや集中力切れたので、感想もなんともまとめづらいんだけれど、女の本能みたいなものをまざまざと見せつけられて、同性として逃れたい気持ちになる。
いつもそういったものをどこかで感知しているのだけれど、もちろん普段はないもののように振舞っているわけで、それを知られてはならないとむろん思っていて・・・。・・・。

なんだかまとまらなくなってきた(汗)。
とにかく、映像がすごいから観てみてください。
黒い衣装たちも、めちゃくちゃかわいかった。そろそろわたしも歳だしカラス族になってもいいかな。
おしゃれな若者にもおすすめできる映画です。