晩春

最近、小津映画をよく観ている。
デジタルリマスター版がBSのプレミアムシネマでしていたので、録画しておいて少しずつ観ている。
邦画を観るのもそもそも半年ぶりくらいだったし、それに小津映画をちゃんと観るのも初めてのことで、ずいぶん感動している。

ただしこの映画は、観ていて、最初からどこか気にかかるものがあった。
原節子の満面の笑み、それに音楽だ。

もっとも、節子は途中からちっとも笑わなくなり、むしろこわい顔になるのであまり気にならなくなったが、音楽のほうにはどうも最後まで意識を引っ張られた。
無声映画時代の名残だろうか、今までに観た小津映画のなかでも、ずいぶんと情緒たっぷりに音楽が流れ続けた。とくに前半は、せりふが聞き取りづらいほどだった。
最近の映画は、音楽を排する傾向が強いし、わたしもなんとなくそういった映画に好感を抱いているので、この映画の音楽ももう少し抑え気味なら良かったんじゃないかと思う。

まぁ、だから悪くはないんだけどという印象だった。(何様だよって感じですみません)
これは好き嫌いで語れるものだと思うので断言できるけれど、この映画を観る前の日に観た『秋刀魚の味』のほうがわたしはよっぽど好き。
たしかに鎌倉の風景は絵的に良かったし、能のシーンもたまらなく良かったけれど。
原節子は「永遠の処女」と評されているわけだけれど、不思議なくらいにわたしのなかの原節子にはそのイメージがない。初めて観た原節子の映画が、黒澤明の『白痴』だったかも知れない。
それに原節子の存在は、小津映画には欠かせないものだというのは分かるが、少し容姿がつよすぎるのではないかと思うのだ。
あのひとはどう見ても日本的な女ではないし、それに処女性を強調するにしてはあまりにすべてが豊かすぎるでしょう。いくら結婚しなかったからといっても。

だからと言って、原節子のことを女優として否定したいわけでは全くない。わたしはむしろ、彼女のほんとうの良さは処女性とかそういう表面的なところではなく、本来的な底力のような魅力なのじゃないかなぁと思ったりする。
原節子の演技はやっぱり力強い。笠智衆との共演の場合などはとくにそう感じる。エネルギーでものを言わせているような演技だと思う。

長くなったが、わたしのなかで原節子はそういう女優であるので(?)、この映画からなんとなくだが父子相姦めいた匂いを感じた。
突飛な発想と思われるかも知れないが、吉田喜重も同じことを感想したらしい。
この印象は、『秋刀魚の味』からは全く受けないことだった。
とくに京都へ旅行して、帰り支度をするシーンは、娘のせりふも父のせりふも、どこか平坦であからさまな感じがつよく、そもそも長すぎるようだった。

「わたしはこのままでいいの」と泣く原節子はずいぶんと色めいていた。
というより、「このままでいいのに」という感情自体が、そもそも鮮やかに悲しいものなのだろう。
そう思っていたとしても、口にするのは苦しいほどにためらわれる。口にした瞬間に、「このまま」の完璧なかたちは、失われてしまうのだから。

あのせりふは、だからわたしにはひどく甘美な感傷に聞こえた。父親に対して向ける類の言葉などではないように。

笠智衆が父親役だからよかったようなものだと思う。ちがう役者が父親の役だったのなら、もっと違和感があったんじゃないかなぁ。

それに結婚式の夜、笠智衆と月丘夢路と小料理屋でお酒を飲んでいるシーンで、笠智衆のおでこにキスした月丘夢路に、ど肝を抜きながらも「ほんとうに、遊びに来てくれるかい」と念を押すのも妙な気がするし。

それでもやっぱり美点だらけの映画だった。
鎌倉や東京、京都のそれぞれの風景がほんとうに印象的で、小津がこの映画に日本をぞんぶんに写そうとした意図はひしひしと伝わってくる。

繰り返しになるが能の場面はほんとうに見入った。あんなに美しいものだとは思ってもなく、俄然興味がわいた。
能の帰り道のカメラもよかったなぁ、しんとして明るくて、清潔なシーンでほんとうによかった。

近々、東京物語を観よう。