鼻の夢

わたしは夢でいつも、いくつかの決まった町に訪れる。

そのひとつに、いつも夕方みたいな風景の町がある。この町に来ることがいちばん多い(前回の海辺のジェットコースターもこの町だった)。
わたしはよくここに夢の中の恋人と一緒にいるんだけれど、今回の夢は母親と一緒だった。

わたしは夢の中の自宅の、小さなベッドで寝ていた。そのベッドはふつうのシングル・ベッドより短く、わたしは足を折り曲げて寝ていた。
その姿勢のせいも多少はあったかも知れないが、鼻があまりにかゆいのでたびたび目が覚めた。そのたびに、ぼーっとしながらも思いっきり鼻をこすった。そのかゆみは、鼻の奥ではなくどちらかというと表面、皮膚がかゆいという妙な感覚のもので、鼻水が出ていたりするわけではない。
しかし疲れていたのかすぐに眠りに落ち、またしばらくして鼻の不快感で目が覚めるのだ。

そんなことを何度かくり返し、ひどく気分の悪い朝を迎えた。早朝、よわい朝の光がくすんだ色のカーテンを膨張させていた。
まだ鼻がかゆかった。わたしは上体を起こし、鼻がもげてしまうんじゃないかというほど無造作に手で強く鼻を掻いた。そして恐ろしい光景を目にする。

その手が真っ黒に汚れている!

インクの汚れのようで、手が一面まだら模様になっている。ところどころに、その得体の知れない黒い汚れはちいさくかたまって手にくっついている。
それだけでも充分ぞっとしたが、すぐにその黒い汚れがどうやってついたのか見当がつき、卒倒しそうになった。

気が遠くなりながらもわたしは階下におり、洗面所の鏡で自分の顔を見た。
やはり、鼻がもっと深刻に黒く汚れている。血だとは思わなかった。
わたしはなぜか、皮が剥けているだけかも知れないと思った。
その汚れはややべたつくような質感で、わたしは急いで手も顔も石けんで丹念に洗った。
たびたび度を失いそうに、しゃくりあげそうになったが、なんとか気をしっかり持とうとした。
洗うと汚れはすぐに落ちたが、また鼻をさわると黒いなにものかがつぶれたように鼻から出てくる。
はっきりと、悪夢みたいだとその夢でわたしはごちた。
きっと鼻の皮が剥けただけで、べたべたするのは鼻水なんだ。いずれにしても病院に行けばすぐに治してもらえるだろう。

顔を洗ってもまだ鼻はかゆかった。
わたしは居間にいた母に、切迫した声で事情を話した。母は現実の朝と同じように、牛乳のほうがコーヒーよりも多いカフェオレを飲みながら新聞を読んでいた。母はあまり反応を示さずに、「病院に行かなきゃいけないの?」とどこかからかうような声を出した。それはまたなの?というニュアンスのもので、しょっちゅう体調不良を起こし、大騒ぎするわたしへの軽い非難が含まれていた。

わたしは苛立ってほとんど声を荒げた。こんな突飛なことが起こっているというのに、娘が心配じゃないのだろうか。

それでわたしは着替えもせず、子どもじみたネルシャツのパジャマのまま、母を急かし、車で耳鼻科へ向かった。鼻を触らないようにとマスクをつけた。いつもは助手席に乗るのだが、重篤患者のように後部座席で横になり、半目で窓の外を見上げながら病院へ着くのを待った。
窓の外の景色は桃色で、まるで目に見えない雨が降っているようにぼんやりと濁り、湿っている。

ずいぶんと長い道のりだった。
わたしは話す余裕もなくかゆい鼻からなんとか意識を遠のかせようとした。
しかし車内は涼しくて、静かで快適だった。途中から母の気配が消え、わたしはまるで無人で進む車のなかにいるようだった。

病院に着いたときにはすっかり日暮れ前だった。
その病院はいかにも昭和の病院然として、総合病院のような相を呈していたが、夢の中では耳鼻科院だった。頑丈な鉄筋コンクリートは遊びのない建築で、白い漆喰のよごれ方さえも病院らしく、少しだけ気後れしたが、わたしはひとりで自動ドアを抜けた。

病院のロビーは無人だった。少し診療時間を過ぎてしまっていたからだろう。きちんと消毒液の匂いがし、赤茶の床は寒々しかった。

受付に、ナースキャップをつけた若い華奢な看護婦が急に現れた。わたしはすがるような口ぶりで半分泣きながら事情を話した。
一通り話を聞いてくれると、看護婦はずいぶんと頼もしくうなずき、「もう大丈夫ですからね、こちらへどうぞ」とパジャマ姿のわたしの肩をしっかり抱いて、診察室に通してくれた。

〈その診察室は、わたしが未だにお世話になっている(現実の)小児科の診察室とまるで同じだった。ホワイトボードの予定表の上に並べられたアンパンマンやらカレーパンマンやらのぬいぐるみの並びまで同じだったが、もちろん夢の中ではそんなことは気づかない〉

中には、やはりナース服をきてナースキャップを被った美人な看護婦がいた。受付に現れた看護婦より歳だったが、同じような系統の顔立ちをしていた。色白で、ひとえの目はきりっとしていて口元も上品に結ばれ、黒髪はひっつめにされていた。

ただし幾分がさつな口調と動作の看護婦で、わたしを座らせ、向き合って座り、マスクを外すように指示し、わたしは言われるがままにマスクをとった。

そのときの思いっきり気の毒そうに歪められた看護婦の顔は今も忘れられない。
熟練の看護婦のようで、一目で症状の原因がわかったようだった。それでも席を立ち、きびきびと奥から棒付きアイスの木のへらのようなものとペンライトを持って戻ってきた。
確認するように、軽くそのへらでわたしの鼻の穴をつついたりライトで照らしたりして、それで自信たっぷりな、慰めるような口調でこう言った。

「鼻の入り口に小蝿が沸いてますね」

しっかりとわたしの目を見て看護婦は言い、しかしわたしはそれを聞き間違えだと思った。

「 鼻の皮が剥けちゃってるんですよね」

「いや、小蝿が卵を産んじゃったようですね、ときどきある症状なんですが、ちょっとひどいわねぇ。でもきちんと消毒しておけばすぐに死にますから」

そう言って、その看護婦は綿棒をわたしの鼻に突っ込み、

「こんなふうにね、一日数回消毒すれば大丈夫ですからね」

と励ますように言った。
わたしはそれで完全に言葉を失った。

その綿棒はひんやりと濡れていて、アルコールのおかげですっと鼻が通ったようで、多少痛かったがしかし気持ちがいいとさえ感じた。

手についていた黒いのは、どうやらまだ形になっていない蠅を潰してしまっていたのだ。
恐ろしさと得体の知れた安心が一度にやってきて、しかも鼻をつつかれてくすぐったいのもありじわじわと大泣きした。

それで目が覚めた。
鼻の違和感はまだ強烈にあったが、手は汚れていなかった。
それで安堵して泣くのをやめて、ひとりでにバツが悪くなった。

現実でも夢でも、わたしは看護師さんという生き物に甘えすぎてしまうところがある。