永遠と一日

今年はあまり映画が観られない一年だった。
アルバイトを長くしたこともあるし、夏のあいだは家に帰るのが億劫で、毎日のように街で遊んでいて、わざわざ漫画喫茶でDVDを観たりしていた。

それで去年よりもいい映画を観たという実感がわかなかった。とくによかったと思えたのは、タヴィアーニ兄弟のいくつかの作品と小津安二郎のデジタルリマスターを観たことくらいで、それ以外はパッとしなかった。

2016年も終盤にこんなにすばらしい映画に出会えて歓喜している。
今年の春に『旅芸人の記録』をようやく観ることができたのだけど、なんというかぜんぜん期待はずれだったので。たしかにクレジットに入ったときは、肩の力がぬけて嘆息したけれど、それまでだった。あまりに映画に身が入らず、相性がわるいとしか言いようがなかった。
なので『永遠と一日』にもそこまで期待していなかったけれど、始ったとたんから、あまりの美しさに息をのんだ。

「砂浜でお手玉遊びをする子ども、それが、時だってさ。来るだろ?」

なんていうせりふが冒頭にあり、すっかり映画にのみこまれてしまった。
映像の美しい映画で、この美しさはタルコフスキーやビクトル・エリセといった監督たちの美意識とその成果に比肩すものだとわたしは思う。

物語はベルイマンの『野いちご』を彷彿する。
死が近いある老詩人の一日を、幻想に侵食されゆくさまを、ひどくとりとめのない映像詩で描いている。

しずかでなめらかなカメラワークはあまりに技巧的で、断続的に変化する構図は、つめたく緊張しつづける。

せりふもまた際だってよかった。
小間使いの中年女性と主人公の老詩人が、ぽつりぽつりと会話を交わすシーンが冒頭にある。

「コーヒーは書斎に置いてます」
そしてつぎのシーンで書斎に移動した主人公が、机の上に置かれたコーヒーを立ったまま一口すする。窓の外はまるでホッパーの絵のように、海と空しかない。

「犬のえさは済んでいます」
とくらい表情で告げる小間使い。
そして2シーン先で、主人公は大型犬を連れて海辺を歩いている。

うまくことばでは説明できないけれど、見たひとすべてにとって、この瞬間瞬間は、現実でしかあり得ないことをほとんど強引なまでの力で観客に肌で分からせるのだ。

なんていう清潔さ!この洗練のされっぷり!なんてすばらしい才能!
すっかり感動した。息がとまるような感動だった。
こんなに美しい犬の散歩シーンも見たことがなかった。
潮風を感じつづけ、また海の匂いが実際閉じこめられていた。

そしてもうひとつ特筆すべきは、あのバスのシーンだ。
詩人はアルメニア移民の子を連れて、出発地と行き先がおなじバスの旅に出る。
この旅が終われば、今朝出会ったふたりは永遠にお別れだ。

夜もじゅうぶんに更け、いかにもヨーロッパらしい形をした大きなバスにふたりは乗り込む。
そしてふたりはさまざまなひとたちに出会い、かれらのさまざまな横顔を目撃する。
ある若い男女のありふれて、そうだからこそ切ない別れ、詩人が晩年に情熱を注いだ19世紀の詩人ソロモスや、若者の四重奏楽団。かれらはバスの中央で、譜面台を広げ演奏をはじめる。かれらの奏でる音楽は、詩人にとって生涯でもっとも重要な曲だった。

ソロモスは、燕尾服にマントとシルクハット姿でバスに現れる。
殺伐としたバスのシートや蛍光灯に、その漆黒の衣装の男の後ろ姿があまりに絵画的で、物語の進行も忘れてしばし感動した。
ほんとうに、映画を観ながらなんど息をのんだことか。
最近ろくに美術館に行ってないので、頭がそういうものを求めているのかも知れない。

この話は移民の子どもが準主人公なので、移民問題についてもテーマになっているように見えるけれど、じつはそんなことはない。
これは「居場所がない」ということについて描かれた話だ。
この少年の一生というものが、あまりに厳しく現実的に見放され、観ている側は彼の「死」についても考えざるを得ない。そして彼自身もそれを、実直にごまかしなしに捉えていることは、よくわかる。

そして、人生最後の一日を、ひとはどのように過ごすかということを、監督は問うている。
主人公の詩人は、まだ元気な母親と、地中海の賜物のようなうつくしい妻と、そして陽気な親戚たちと過ごした夏の日々を懐古しつづけ、そしてのみこまれてゆく。

詩人は最終的に入院を拒み、おそらく近いうちに自然に亡くなるのだろう。
しかし詩人にとって「詩」はすべてのおわりを意味するわけではない。
それは物語の後半にわかりやすい言葉で映画に刻まれている(正確なせりふは忘れてしまったけれど)。
かれが傾倒したソロモスが、詩人の最後の旅に現れたように、詩人はまたいずれ、だれかのバスに乗り込むのである。