草間彌生展「わが永遠の魂」

あの水玉を、しばらく凝視してぎゅっと目をつむると、まぶたの裏にぼやぼやとモノクロの残像が浮かぶ。
初めて彌生ちゃんの水玉を見たのはまだ子どもの時分で、そんなふうにしてしばし遊んだ。

久しぶりにあの時間を思い出した。
わたし自身は幻想や幻聴を知らないけれど、過眠症で、たぶんふつうの人の何倍も長く深い夢をよく見る。
夢を題材にした作家は古今東西たくさんいて、最近の人だとベルギーのリュック・タイマンスなんかが地味で好き。それでも実際的に身近なはずの彼らに、草間彌生に対してほどには愛情を感じたことがない。

彌生ちゃん自身と、彼女が生む幻と、その幻をばくばく食べながら育ちゆく作品に、わたしは自分でも驚くくらいに愛情を感じている。
自分がとこかで治癒していくような心持ちにさえなる。

今回、最初期の油絵を初めて観た。
アクリルやコラージュに比べてスピードがないぶん重く、苦味が画面を支配し、展示されている一角が暗く沈んでいた。

音声ガイドのなかで彼女はたびたび自殺について触れる。

『自殺した私』という作品も何枚かあった。
自殺した私、という題はちょっと奇妙で興味深い。
その作品群は、死後について思い馳せているのではなく、単純に死んだ私を描いている。

これはとても救済的なことだと思う。
ほんものの死の代わりに、儀式的に自分の少しを殺してしまうこと。
たとえば、事故なんかで足を切断したり、病気で視力を失ったり、そういうふうに身体の一部を損ねるように、わたしたちは時折り自分の精神や感受性の一部を殺して(もしくは不本意にも死なせてしませって)どこかに置いてきてしまっているのではないか。
そういう強烈につよい瞬間を、自分の人生で経験したことがあるような気がする。

80年代以降の作品は技術的に卓越してくるし、とくに色彩と構図やフォルム構成の感覚はいつも感動的。

死にまとわりつかれながら制作を続け、絶望せずに(もしくは絶望から幾度となく回復し)あくまで人類の存続、世界平和を全面的に望む作品を生み続けている。
アウトサイダーなどではなく、このやってられない時代の真っ当なスターだと思う。

音声ガイドのなかで、一所懸命に喋っては息継ぎをする彼女がいじらしかった。