ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話 付 インド・ローマ神話』

ブルフィンチは19世紀のアメリカの神話学者で、ほぼ世界じゅうの神話や伝説を研究したらしい。
この本でも、ギリシア・ローマ以外に、エジプト、北アフリカ、インド、スカンディナビア、ケルト、アイオナと、土地・時代どちらも多岐にわたる神話がまとめられている。

とてもおもしろかった。
神話ってフィクションとノンフィクションのあいだで、何にも侵害されない神聖さ(批評とか史実確認とか)を保って永遠に息づいているんだなぁと感じた。

聖書も似たような色合いを帯びてるけど、神話は宗教本とちがって押しつけがましさがないところも好き。なにより文学として途方もなく美しい。

ばちが当たったり、あんまり悲しかったりで、登場する人間やニンフはしばしば月桂樹だのアネモネだの蓮だのになったりするが、その数語の文章なんかの簡潔で有無を言わさぬ力には惚れ惚れとしてしまった。
疑問や感想を抱く余地をこれっぽっちも与えない。

無秩序で独自に完結している世界。ブルフィンチは「異教の」というけれど、もはやここでつむがれる世界は人類の歴史というにはあまりに浮世離れしすぎている。

恍然としたり、呆然としたり、それを通り越して失笑したりした場面はたくさんあるけど、とくに気に入ったヶ所を抜粋。

『…。私は娘を失くしたのです。』女神はこう話した時、涙ーーまぁ涙みたいなものというほうがいいでしょう。神様は決して泣かないものですから。ーー涙みたいなものが頬をつたって胸の上に落ちました。

黒い羽毛と黒いカーテンで飾った一つの黒檀の寝椅子があって、その上に睡眠の神がよりかかっていました。彼の手足は眠りのためにぐったりとしていますり周囲にはいろんな夢どもが横たわっていますが、どの夢の形もどことなく似通っていて、刈り入れ時の大麦の茎か、森の木の葉か、あるいは海岸の砂粒のように数限りなく横たわっています。

狼のフェンリスを鎖でつないでしまうまでは神々とひどく苦労しました。…ついに神々は山の精に使者を立てて、グライプニルと呼ばれる鎖をこさえてもらいました。その鎖はつぎのような六つの物からできているのであります。すなわち、猫の足跡から生じる響きと、女の鬚と、石の根、魚の息、熊の神経過敏、および鳥の唾液の六つであります。

最後の引用は北方神話から。
ギリシア神話に比べて荒っぽく、ディティールが豪快なところがおもしろかった。

訳者の野上弥生子は漱石の弟子で、まえがきに漱石からの手紙をもちいている。
彼女の小説は『真知子』を読んだのみで、それがあまりにへんな小説だったので、警戒しながらこの本も開いたけれど、すばらしい訳だった。大正時代の女性の仕事とは。
(女神たちが「〜かえ?」と話すのには閉口してしまったけれど)