復活

タヴィアーニ兄弟が2001年に撮ったテレビ映画。
どうしてイタリア人の彼らがこんなに本格的にトルストイを撮ったのかは謎。

映画が大衆化してからは、毎年のように撮られていた『復活』も、60年代に一本撮られてたきりぱったり扱われなかったところ、20世紀に入りすぐにタヴィアーニ兄弟が映像化したよう。
ウィキペディアによると『復活』は通算23回も映画化されている。日本の監督も熱心に撮っているみたいだけど、なんだか具合の悪くなるようなシロモノな気がする。
(高校時代、インフルエンザで弱っているときに観た、黒澤明の『白痴』がトラウマになってる)

タヴィアーニ兄弟のことは一年前に知ったばかりで、『父/パードレ・パドローネ』と『サン★ロレンツォの夜』を観ただけで、 よく知っているわけではないけれど、好きな監督はと訊かれてよく名前を挙げるひとたちのうちのひとり。

トルストイの『復活』はむかし上巻で読むのをやめてしまったので、あらすじは分かっているけれど、結末は知らないというような感じだった。
もう読まざるをえないので、こんど図書館で借りよう。
なので原作との比較はもちろんできないけれど、きっと原作に忠実なのだろう。
映画の尺はあの頁数にちょどよいくらいだろうし。

映画はほとほとよかった。
どうしたらテレビ映画にこんなにお金をかけられるんだろう。日本じゃゴジラくらいにしかこんなに大金と時間つぎ込めないのに。

時代設定にもきちんとこだわり、ちょっとアレンジしてみようとか自分なりの解釈を挟んでみようという無用な試みも見られない。あくまでトルストイの小説を映像化することに徹している。

ただ今回も、タヴィアーニ兄弟のギャグ(?)にはやっぱり大笑いさせられた。
検事次長セレーニンがネフリュードフに「恩赦が受けられたぞ」という旨の手紙を書いているシーンで、かれが手紙からゆっくり顔を上げ、しっかりとカメラを見据えて、「これで結婚もできる」という場面がいちばんおかしかった。
きんぴかの豪華な部屋で、負けじときらびやかな制服を着た完全に19世紀の人間が、とつぜん現代映画の手法で介入してきて。
きっとふたりのタヴィアーニも笑えただろうに。

カチューシャ役の女優がよかった。
当然いろんな演技を要求される役でも、過剰にならずに自然になめらかに感情の変化を演じ分けていた。
最後にネフリュードフにみせた、力の抜けたまるで少女のような目をしてうつくしい笑顔にはびっくりした。
『魔の山』のショーシャ夫人って、きっとこんなふうだったんじゃないかなと思った。
キルギスふうの、切れ長のほそい目。うつくしくて。

ヒロインだけでなく、出てくる女優みんな高レベルな美女でさすがおそロシアだわと恐れいった。

原作を読んでいないのではっきりしたことはわからないけれど、ネフリュードフは神を信じられないようだった。
それなのに、なぜかれはあそこまで救済されることを渇望したのか。
かれにとって、あんなにあの現状は倦むべきものだったのだろうか。
彼女を心底愛すこともできずに。ネフリュードフの硬直した感情がかなしかった。かれはどうすればよかったのだろうか。
周囲の者が言うように、彼女と関わらずにいるべきだったのだろうか。
それとも、強引にでも彼女に結婚を迫ったほうが、まだ人間的だったろうか。
かれにとって究極的に苦しいことは、罪の意識に、孤独にひれ伏すことなんだと思う。だれ一人巻き込まずに。カチューシャさえもとおいところで。
宗教というのは、いつもいちばん困難なことを要求するものでしょう。

彼女はかれの顔を見るたびに傷ついて、過去を怖れ、運命を恨み、かれのいないときにはその面影を偲び、思い焦がれ、それはあまりに残酷なことだったのではないか。
映画を見るだけだと、この状況にしてはこのラストは最善のラストだったようには見えたけれど。

彼女の口から神ということばが出て、彼女はかれも自分も解放した。

でも解放と救済は同じことではなくて。
かれが救われれば、自動的に彼女も救われるのならよかったのに。
現実がそう単純ではないように、トルストイは劇的な構図のなかに、しっかりと本当のことを書いているんだなぁ。

ふたりともにわたしは同情した。
カチューシャは最初、かれを救うことを拒むために結婚を拒んだ。
そして最後には、かれに未来をみせるために、結婚を拒んだ。

映像もつねによかった。
どうしてこの兄弟はこんなに自然を写すのがじょうずなんだろう。ちょっと頭から話しが飛んじゃうくらい、木々や空や湖が美しい瞬間があった。

感動しました。タヴィアーニ兄弟ってやっぱり天才だね?