水たまりの娘

そのカップルはわたしが実際に知っているきれいなひとたちで、わたしはそのふたりにリヨンに招かれていた。
ふたりに会うのは久しぶりだった。静かにだけれど、わたしに会えたことをとても喜んでくれていた。

そのリヨンはでも東ベルリンのような景色だった。街中にどきつい彩色のらくがきがあった。わけのわからない絵柄ばかりで、それらは街によく調和していた。

わたしとふたりはよく地下鉄へ乗った。
車内に明かりはなく、ひどく混雑していた。地下を走っているはずなのに、電車はいくつものネオンを次々に追い越していき、目が眩むような美しい光景を見た。

ふたりは仲睦まじく寄り添って、ときどきふたりだけで小さな声で会話をしてはほほ笑んでいた。
そしてそれがまったく嫌なふうではなかったので、わたしもつられて笑った。

 

電車を乗り継ぎ、ふたりはわたしを田舎のレストランに連れていってくれた。

夕暮れどき、午後5時、空は透きとおっていてほのかに桃色に色づき、そしてたっぷり湿っていた。(夢のなかであまりに馴染みのある空色。わたしのみるふしぎな夢はいつも夕方)

そこはガーデン・レストランだった。

頭上低くに緑が生い茂り、緑にからめられた電飾がつめたく光っていた。
夏の正装をした大きな体の白人たちがあちこちのテーブルで満ち足りた顔で食事していた。

そのレストランはほんとうにほんとうに美しく、目の前のふたりは素敵で、わたしはたくさんたくさん飲んで、なんども椅子からすべり落ちそうになったり頭をおおきく仰け反らせていた。
そのたびに、正面に座る男は心配げに笑っていた。
薄っぺらいからだにくたくたのTシャツ姿の彼は、そのレストランでなによりもきれいに見えた。

わたしたちは、ゆっくり食事をつづけた。いつまでも夕方だった

 

場面が切りかわる。

2週間ほど経ったような感覚。そのあいだはかれらのマンションで寝泊まりしていた。わたしたちはマリエンバートにある小さな城のような場所(『去年、マリエンバートで』の城のような)にいた。フランスふうのするどい刈り込みがされた木々のある庭に踏み入った。
ふたりが通う学校のようだった。

日本人のための学校というわけではないようだけれど、若い日本人たちがたくさんいた。
80年代ふうの、サイケデリックな格好をしたティーンエイジャーたち。みなさまざまな服に、さまざまな髪型をしているのに、私にはひとりずつを見分けることはできなかった。
まるで色とりどりのかびるんるんのようだった。

その子どもたちは、わたしたちに気がつくと血相を変えて走り寄ってきた。
わたしは疲れきりながらも怯えた。
ふりむくと、ふたりの姿はなかった。

わたしはあっという間にその子どもたちに囲まれ、からだのいたるところを掴まれた。
わたしは極端にひとに触られるのがにがてで、吐きそうになった。

「あのふたりはどこに行った」と子どもたちはわたしによってたかった。
どこに行ったも何も、あのふたりはわたしとあなたたちの前で姿を消したでしょう、とわたしはしどろもどろになりながら答えた。
わたしを囲んでいたうちの幾人かは、ふたりを捜しに離れていった。

ふたりはどこに住んでいるんだ、いままでどこにいたんだ、お前は何なんだと、残った子どもたちは矢継ぎ早にわたしに問い立てた。
わたしはわけが分からず子どもたちのうちのひとりに質問した。
「どうしてふたりを追ってるの?」
その子どもは警戒した顔をして、無言でわたしから離れていった。

しかし子どもたちの会話の断片から、わたしは事態をだいたいつかんだ。

ふたりを追っているのは、実際は子どもたちではなく、彼らはある人に使われて、ふたりを探しているようだった。

その人物は、ふたりに何かとても重要なものを盗まれたようだった。そしてその盗みに、子どもたちも何かしら被害を受けているようだった。

そして子どもたちを使い、その盗まれたものをとり返そうとしているらしかった。

 

それはおとぎ話かなにかに出てくる悪人のようだった。

やくざや人殺しなどではなく、もっと浮世離れした存在のようだった。

そしてすべてのかれの情報は噂にすぎず、子どもたちはその存在をしかと把握しているわけではないようだった。

子どもたちは苛立ち、怯えていた。

 

わたしは混乱しながらふたりのことを考えた。

たしかにかれらは、夜、わたしが寝ているあいだどこかに出かけているようだった。

ふたりともとてもおだやかに過ごしていたけれど、相当に疲れているように見えた。女はいつも泣きはらした顔をしていて、口数は少なかった。とくに男は何日も入浴せず着替えもしていないようだった。わたしはそのことについて、かれらに何か尋ねるようなことはしなかった。

わたしはふたりがどこへ逃げたのか、見当もつかなかった。深刻な状況だったのに、たださびしかった。わたしも一緒に連れて逃げてくれたらよかったのに、と。

 

場面が変わる。

しばらく経ち、わたしはふたりに再会した。ふたりから、わたしを見つけ出してくれた。

その事実(夢の話で事実なんてことばを用いるのはおかしいけれど)は、泣いてしまうほどの幸福感だった。

探しつづけて、でももう会えないと諦めていたひとが、じぶんを探し当ててくれたこと。

ふたりとも疲れきっていた。何時間も海で泳いでいたみたいにびしょびしょだった。

場所はどこかわからないが、かび臭いホテルの一室のようだった。どうしようもない部屋だったが、そこは安全だった。

 

女はわたしにすべて話してくれた。

わたしは話しを聞きながら、その状況を想像した。

もう何年も前、女はまだ14歳で、男は19歳くらいのとき。

女は男の子を妊娠し、男以外のだれにも知られずに浴室で女の子を産んだ。その浴室は、ふたりが逢瀬に使っていた、無人の別荘のものだった。

わたしの想像のなかのその浴室は、水色のタイルが壁と床にはられていて、中央に湯船がおかれ、それをビニールのカーテンがぐるりとかこめるようになっていた。

広く、寒々しい浴室だった。

その女の子は、わたしの想像のなかで、白人の赤ん坊だった。

ふたりは娘を愛し、なんとかお金を工面し、懸命に娘の世話をしていたけれど、2年ほど経ち、その娘が少しずつ歩くようになった頃、女が目を離したすきに、娘は段差につまずき、けがをした。そのけが口から娘はなにかの病気に感染し、またたくまにとても人間とは思えないような姿に成り果てた。

わたしの想像では、その女の子は半透明の粘着質な水たまりみたいになっていた。手も足も顔もなく、無機物なのか有機物なのかもわからなかった。女は気がおかしくなるほど、じぶんが目を離したその一瞬に執着しつづけた。

娘は水たまりのままだった。動きもせず、蒸発もせず、寸分狂わぬまま形のまま、存在しつづけた。

ふたりは娘に触れられなかった。そのうち先に男が、またしばらくして女も浴室に寄りつかなくなった。

ふたりはあまりにかなしかった。あまりに不当なくるしみを与えられたと思った。それぞれが、相手からもう離れてしまいたいと思いながらも、離れることができなかった。学校に戻ることを考えはじめていた。

そのとき、その悪人がふたりの前に現れ、ふたりにその水たまりを渡すように要求した。悪人のビジュアルは、わたしの中にない。

その悪人がどこからこどものことを聞きつけたのかは分からないが、そのときには学校のクラスメイトたちはみな浴室の秘密を知っていたと女は言った。

ふたりは悩みながらも水たまりと化した娘を、その悪人に渡した。その代償に、ふたりは大金を手に入れた。

たしかにふたりは裕福にしていた。

女はさめざめと泣いていた。

どうやって、ふたりが水たまりの娘を奪い返したのかは話してくれなかったけれど、その水たまりの娘が手元にあってもかなしかったのと女は言って、わたしはただ途方にくれていた。

それで、悪人は、学校の子どもたちにその水たまりの娘を連れ戻すように命令した。水たまりの娘は売春に使われて、莫大な利益を生んでいたようだ。売春の具体的なイメージはない。でもおそろしくて話を聞きながら吐きそうになった。

学校の子どもたちも、その水たまりの娘が悪人の手にある間じゅう、悪人に養われ、酒と薬におぼれていたらしい。

女は泣きながら話しつづけ、男はぐったりとしていた。

夢はここまで。

水たまりの娘がどうなったのかは、いまいち知らない。