アンナ・カレーニナ

知人とこの本の話になり、わたしが語ったあらすじに「それだけ聞くと、つまらなさそうな本だね」と言われたのが若干ショックだったので再読。

それと『復活』も近々読みたいと思ってる。

今回は時間をかけてていねいに読んでみた。

前読んだときは、アンナの物語にずっと注意が惹きつけられていたけれど、今回は真逆で、ずっとリョーヴィンの話に関心が向いていた。

(リョーヴィンは、ぜったいアスペルガーだと思う!)

リョーヴィンが信仰を見出す経緯が見事すぎて、前回は完全に見逃していた具合とかにもびっくりした。

描写のするどさも。ロシア文学は、どうしてあんなに見覚えのある人物たちを永遠に留めておくことができたんだろう。ここに描かれた人物たちが、こんなにも隔たり(時代も距離も地位も)のあるフィクションの人物だとはとても感じられない。終始長々しい描写にも、ふしぎと誇張は感じられず、自分自身も日常生活で感じながら見過ごしているような感情までもがぴたりと描き表される。

相当な頁数が割かれる当時のロシアの農業事情や哲学談義なども、まったく知識がなくても読んでいてある程度状況やそれぞれの人物の立場を推し量れ、退屈な場面でも内容が入ってこないということはまずなかった。

 

なんとなくこんな感想を大傑作に書くのは気がひけるけれど、アンナとヴロンスキーの大恋愛みたいなものは、正直ほかの小説でも出会えるものだと思う。

綿密にこれと対比させたリョーヴィンの側のストーリーは、地味でとくに予測が立てられない分、とても味わい深かった。リョーヴィンの生きざまに現実的に惹きつけられる。

彼が農事経営に四苦八苦し、リョーヴィンを好いていながらも言うことを聞かない農民に振りまわされるさまがおもしろい。こういうのはほんとにロシア文学の醍醐味だなあ。

 

まぁ、ただしアンナのほうの描写は、恋をしたことのあるすべてのひとに、多かれ少なかれ直接的にふれるものがあると思う。けっきょく、リョーヴィンのような人間は少数派で。

「アンナ、なんだってきみはこんなにも自分も、ぼくをも苦しめるんだね?」彼はアンナの手に接吻しながらいった。いまや彼の顔には、優しい愛情が現れていた。アンナは、彼の声に涙の響きがあるのを自分の耳で聞き、そのしめりを自分の手に感じたような気がした。と、その瞬間、アンナの絶望的な嫉妬は、狂おしい激情的な愛情に変った。アンナは彼を抱きしめて、その頭といわず、首といわず、手といわず、接吻の雨を浴びせた。

こんな(きっとどんな人も)身に覚えのありすぎる描写の次の日に、またふたりは醜いけんかをして、さすがにアンナが哀れでならなかった。不幸になる要素はそもそも彼女がその美しさと同じくらいじゅうぶんに含みすぎていて。

最後にその感動的だったリョーヴィンが信仰を得るさま。

愛する兄の瀕死の姿をまのあたりにながめて、リョーヴィンははじめて生と死の問題を、いつとはなく青少年時代からの信仰にとってかわった、彼のいわゆる新しい信念を通してながめたときから、彼は思わず慄然として、死を恐れるというよりも、むしろ生命がどこから生れて、なんのために与えられ、なにゆえに存在し、またそもそもなんであるか、ということについて、少しも知識がないのに、相変わらず享受している生を恐れたのであった。

リョーヴィンは自分の無知に対するこの恐怖を感じないときはなかった。

いや、そればかりか、彼は自分が信念と称しているものは、単に無知であるばかりでなく、自分に必要なものを知ることを許されないような思想形態にすぎないことを、おぼろげながら感じていた。

ここの描写も、すっごい共感できてびっくりした。意識的にこんなこと、今まで考えたこともなかったのに。

おれははたして理性によって、隣人は愛すべきものであり、圧迫してはいけない、という真理に到達したのだろうか?おれは子供の時分によくそれを聞かされて、喜んでそれを信じたものだが、それは自分の魂の中にあったことを言われたからだった。じゃ、誰が、それを発見したのだろうか?理性じゃない。理性が発見したのは生存競争であり、おのれの欲望の満足を妨げるものは、だれでも絞め殺してしまえと要求する法則ではないか。これこそ理性の結論なのだ。他人を愛せよという法則を、理性が発見するわけがない。なぜなら、それは不合理なことだから。

それで結論的に、信仰は生活の中に啓示されたのであって、すべての人同様授けられた、となるわけです。

1500頁くらいあるからね、なんだかすごく感動したのです。