零度のエクリチュール

難しくてわくわくしてしまった。

どの章でも結論は理解できるんだけど、その過程の説明がなんだかつかみづらくって思わず笑ってしまうほどだった。

ただし、そんなに長い読み物じゃないし、そんなこと後々どうとでもなるよね、と思えるほどには充分凄みのある内容だった。

『喪の日記』で、久々に知らなきゃ我慢できないものに出会ってしまった。こういうことって稀にある。8歳のときのヒトラーとの出会いもそうだった。

かれのほかの本を今後読み進めれば、きっとこの漠然とした理解は深まってくれると思う。読み始めた『明るい部屋』がよっぽど分かりやすく安心してる。

石川美子のこの訳は名訳。注釈もとっても親切で、とりあえずわたしが今よくわからないのは、実際わかりづらいところなんだろうという安心感がある。

解説は主に、この本の基になった1947年にコンパ紙に掲載されたバルトのデビュー論文について書かれいていて、その論文と本書との相違点が挙げられている。 そこにこんなことが書いてあって、ずっこけそうになった。

 

バルト自身は「エクリチュール」の意味をたえず変化させてゆく。彼自身、一九七一年につぎのように語っている。「『零度のエクリチュール』では、エクリチュールはむしろ社会学的な、とにかく社会=言語学的な概念でした。集団や知的グループの個人言語であり、・・・、国民の体系である言語と主体の体系である文体とのあいだに位置するものだったのです。・・・そして新しい理論では、むしろかつて文体と呼んでいたものの位置を示すようになるでしょう」。すなわち、四七年には「文体」との明確な区別がなかった。「エクリチュール」は、五三年には「文体」とは異なるものとして定義され、七十年代になると螺旋を描くように「文体」の近くへ戻ってきたということである。その後も、彼は「エクリチュール」の意味を自在にひろげてゆく。書く行為、書くことそのもの、書きかた、書かれたもの、といった単純な意味でもちいることもあった。・・・「ようするに・・・生じたことー起こったこと、それはエクリチュールなのだ。エクリチュールとは何か。ひとつの力である。長い通過儀礼のすえにおそらく手にするであろう力である」。晩年のバルトにとって「エクリチュール」とは、文学を生みだす原動力そのものとなっていたのである。

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 削除されることなく『零度のエクリチュール』のなかに挿入されていた部分のなかにも、重要な訂正がみられる。第二段落で五回も用いられている『文体』の語すべてが、本に置いては「エクリチュール」に変更されている点である。このことから、一九四七年時点でのバルトはまだ「文体」と「エクリチュール」の概念の明確な区分をしていなかったことがわかる。「零度のエクリチュール」というタイトルを持つ論文のなかで、「エクリチュール」の概念が定まっていないということは奇妙にも思われるが、むしろ、「なにかあたらしいことを言おうとしている」若きバルトの手さぐりの模索が見えるようでもある。

おいおい、と思う。一生懸命読みとこうとしていたのに、こんなに曖昧だったんですか、とつっこみたくなった。

解説にはこんなことも載ってる。 もともと、最終章の「言語のユートピア」の章名は、「エクリチュールの悲劇的な感情」だったらしい。 悲劇という言葉を排してユートピアという単語をもちいたことに、わたしはバルトの文学に対する人間的な愛情を見出した。  本の中では、Ⅱ部のほうが理解しやすい。とくに、「ブルジョア的エクリチュールの勝利と破綻」や「言語のユートピア」はわりと理解が及んだと思う。

とりあえず、カミュの『異邦人』を読んだことがないのは致命的だから、そうそうに読んでみよう。

クンデラの小説の一節を思い出した。

「非計画的な美しさ。そうね。間違いとしての美しさともいえるわ。美しさが世界から消え去ってしまうまで、ちょっとの間、間違いとして存在するの。間違いとしての美しさっていうのは、美の歴史の最後の局面なのよ」

もう何もかも、ほんとうの最後の局面に来てしまっている。

いまの状態ってどういうことなんだろうと私は思う。50年代のときの世界じゃなくて、いまの世界について、わたしは厳密な言葉を欲している。

彼の最期のことば

「今なお、ハ長調の音楽を書くことは可能です。ある意味で、わたしが作品に欲すること、それはハ長調の音楽を書くことであろうと思われます」

ああ、やっぱり悲観じゃなかったんだ。ユートピアという訂正は本心で、かれはほんとにそれを待ちわびていたんだと思うと、胸がいっぱいになった。

 

たくさん本読むんだ。