プレイタイム

ジャック・タチの映画は、ほかに『ぼくの伯父さん』(1952)と『ぼくの伯父さんの休暇』(1958)を観たことがある。

アカデミー賞をとった『ぼくの伯父さん』はわりとストーリーやセリフがあるので観やすいんだけれど、『ぼくの伯父さんの休暇』のほうが好きだったかなぁ。

ていねいな構図がとられた淡いモノクロがきれいで、話しの広がり方が無秩序で無鉄砲でクールだった。そしてあのラストの花火!

あんまり退屈でうとうとしていると、突然あの手に負えない花火たちが爆発しはじめて一気に目が覚めた。

名シーンだった。こどもの頃、わたしは花火がこわかった。ほとんど自分の手で持ったことがなかった。ほかの子どもがしているのを、遠くからながめているだけだった。

そんなうっすらとした火花への恐怖や、夏休み特有の倦怠感や時間の歪みを思いだし、それで映像は目がさめるほどかっこよくって音楽は大人っぽくって感動した。

この高揚感はタチの映画が9割がた退屈なことで助長される、ふしぎな映画体験なのです。ずっとクラシック音楽をしていたから、フィナーレに弱いのかもしれない。

『プレイタイム』はなによりセットがすごい。

こんな話という話もないような映画のセットに2500平方メートルもつかうって、けたが違いすぎてびっくり。

ガラスが多用されたモダニズム建築のなかで、ひたすら古典的なパントマイムやギャグを繰り返すっていうのがタチの映画のたぶんいちばんユニークな点で、わたしはだいたいのギャグを憂鬱にながめている。「このひと、時間大丈夫なのかな?」とか、「こんなしててクビになったりしないのかな」とか、スクリーンの外のよけいな心配をしながら。

思うに、こういうギャグで笑えるのって、ゆとりのあるひとなんだろうな。この憂鬱は、『ぼくの伯父さん』のときいちばんひどかった。

ブルジョワ階級や、ゆきすぎた機能主義を小ばかにしているようで、そのどれもが魅力的に映されるアンバランスさを、タチの映画からは感じる。

タチの映画はたしかにおしゃれで、あの色彩感覚をとぼけた顔のユロおじさんがつくってるってちょっと嘘みたい。

色調の抑えられた背景に、明快な色をした小物が前景に配置され、映像へのやや執着的なこだわりを感じる。

この映画は衣装もいいし(ナイトクラブで、モノクロにドレスアップした人たちの格好がとっても素敵だったー)、ヒロインもかわいかった。

大あわてで開店したナイトクラブのひっちゃかめっちゃかは、どこからかその喧騒が一種の快さに変換される。

とつぜんこの映画そのものが愛しくなる。ユロ以外は名前も付けられていないようなキャラクターたちへ愛情がうまれ、彼らが夢からさめなければいいな、と思う。

わたしが心配する現実に、触れないままでいてくれたらいいのに、とぬるい感情を抱くのだ。

それにしてもバンドしか取り柄のない店で、音楽がとってもかっこよかった。サントラほしいくらい。

ユロ氏のギャグのなかでいちばん笑えたのは『ぼくの伯父さんの休暇』で、ボートが真っ二つになって、ユロ氏がはさまれちゃって、どうしてそういう形状になったのかは分からないんだけど、そのサンドボートがサメのように見えて、浜辺にいた人たちがみんな逃げ出しちゃう、ってシーン。いちいちこんなことに予算かけて小道具つくってるのかと思ったら、にやにやしてしまった。