明るい部屋─写真についての覚書

おもしろかった!

『零度のエクリチュール』はちょっと難しすぎたね。だれか講義してくれないかな。

この本は、写真学校とかで教科書として使われているほど写真論をあつかった本のなかでも重要なものらしい。

バルトは写真の本質、またノエマを、《それは=かつて=あった》と定めており、

107頁には

写真はすべて存在証書である。

とある。

この主張は本のなかで何度もくり返されるんだけど、そうなると、現在、写真をいとも簡単にデジタル処理できるわたしたちの時代の「写真」と、バルトの定義した「写真」は、もう全くことなる性質のものになってしまったとせざるをえない。

デジタル加工は写真の価値を著しく下げてしまったのかも知れない。価値を下げたどころの話しではなく、写真に細工ができるようになってしまったとき、写真とはべつの名称を新たにつけるべきだったのでは、とこの本を読んで思った。熊本地震のときに、ツイッターで「ライオンが逃げた」と合成した写真が流れて話題になったことを思いだした。

〈撮影される人〉は分かりやすく興味深い。ここでは今の「写真」にも通じることが書かれている。

「肖像写真」は、もろもろの力の対決の場である。そこでは、四つの想像物が、互いに入り乱れ、衝突し、変形し合う。カメラを向けられると、私は同時に四人の人間になる。すなわち、私が自分はそうであると思っている人間、私が人からそうであると思われたい人間、写真家が私はそうであると思っている人間、写真家がその技量を示すために利用する人間、である。

私はもはや主体でも客体でもなく、むしろ、自分が客体になりつつあることを感じている主体である。その瞬間、私は小さな死(括弧入れ)を経験し、本当に幽霊になるのだ。

彼の母親は、「私が人からそうであると思われたい人間」というものをもたなかったと彼は述べている。

母は自分の姿を予想したりしなかった。

〈見えない場〉ではポルノ写真について論じていて、

ポルノ写真の肉体は濃密で、自己を見せびらかすが、しかしそれを与えはしない。そこには少しも寛容さがない。

と最後に述べている。

この「寛容さ」の使いかたはしびれる。バルトの言葉遣いって独特で、思いがけない言葉が並んでいたりするとき、それがはじめてみる表現でも、あまりにしっくりぴったりくるから惚れ惚れとしてしまう。一つひとつの言葉がもつ範囲の不透明さを思い知る。ポルノ写真について語られた言葉って、だいたい感情的でぼやぼやしたものが多くて何言ってるのかよく分からないから、この言葉の端的さは新鮮だったなぁ。

バルトは母について語りつづける。

『喪の日記』以降も、かれは同じだけの熱意をもって母の死を悲しんでいて、それを確認してわたしはやっぱりあの読書のときと同じように胸を打たれた。

〈温室の写真〉と〈少女〉の章は合わせてわずか6頁に過ぎないけれど、たったこれだけの言葉で、この本は小説としての側面もそなえた。

最後の引用は、この本のなかでわたしが一番気に入ったところ。

「写真」は暴力的である。それが暴力行為を写して見せるからではない。撮影の度に、強引に画面を満たすからであり、そのなかでは何ものも身を拒むことができず、姿を変えることができないからである(ときとして「写真」は心地よいと言われることがあるが、このことはその暴力性と矛盾しない。多くの人が砂糖は心地よいと言う。しかし私はと言えば、砂糖は暴力的であると思う)。