ドッグヴィル

ラース・フォン・トリアの映画はトラウマ映画の金字塔『ダンサー・イン・ザ・ダーク』しか観たことがなくて、『ニンフォマニアック』も見逃してる(もったいない?)。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でわたしが許せなかったのはヒロインの病的な頑固さで、頑固という性質をそもそも蔑視しているのですごおくイライラしてしまった。
トラウマというよりイライラ。人物の愚かさを推進力にする映画はきらい。

それでもこの映画は、忘れられない数少ない00年代の映画になった。
線路で踊るビョークの恍惚とした表情をよく覚えている。美しくたくましく年老いたカトリーヌがうれしかった。
そして実際、観る前から結末を知っていて待ち構えていたあの処刑シーンに戦慄した。

『ドッグヴィル』の実験的な舞台は、かれがアメリカへ渡れないから苦肉の末考え出した打開策なのか、それともそもそもまともにこういう試みをしようと思ったのか分からないけれど、いやあーすごかった。これで3時間もつのかな?なんて心配は無用で最後あたりにはすっかりのめり込んでしまって、「この映画はこの箱のなかでしか撮れなかった」と確信する。
だれにも逃げ場が与えられていない。物語のなかの人物にも、観客にも。わたしたちはすべてを仕舞いまで目の当たりにしなければ、ここから逃れることはできない。
そんな有無を言わせない力が加えられて、とても途中棄権なんて許されない。トリアはやっぱり、こわカッた!!!

ただしこれは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のようなバッドエンドのトラウマ映画とは実は対極にある、フラストレーションが一気に解消されるスッキリ映画で(こんなことを書くと人格疑われそうだけれど)、わたしはよっぽどこの映画のほうが好きだった。

章に区切り、活字で今から起こる出来事を説明してしまうのは、マルティン・シュリークの『ガーデン』にそっくりだった。あの音楽の使い方は完全にぱくりでしょう。
その説明文とは別に、ジョン・ハート(ハリー・ポッターで初めて出会ってからずっといい仕事をしてる)のナレーションが、くわしいところまで映画の解説をしてしまう。人物たちの感情までも簡潔に説明しきってしまう。
この手法がわたしはわりと好き。
この後どうなっちゃうんだろう?みたいなドキドキを、わたしは映画に全然求めていないんだろうな。

ニコール・キッドマンをさいきんよく観る。キューブリックの遺作『アイズ・ワイズ・シャット』やソフィア・コッポラの『ビガルイド』など。
個人的にわたしはニコールの少女のように柔らかな声がとっても好きで、あの冷たいきれいな容姿とのギャップにいつも驚いてしまう。
急激に好きになった女優。
今回も見事な演技だった。あの箱の隅々までに、彼女のエネルギーが満ち満ちていた。
トムと対しているときの彼女の慈しむような態度は秀逸だった。許すという行為の非人間性。善良であることの非人道性。じっさい、人間はどうしようもない。
ニコールはだから、とても不自然にこの映画で光り輝いていた。
ふつうの人間は、この村の人々と同じように、残念ながら彼女の存在に耐えられないのでしょう。

人間的でいるのがつらくなったの?というせりふはガツンときた。
人間的ではなかったのは彼女のほうで、だいたいいつも人は、人間的の定義を間違ってしまうんだと思った。

ラスト、だからニコールは新しく正しい(ってことばを使うのはちょっとこわいけれど)人間性を勝ち得、彼女は村人たちに、彼らにふさわしい、人間的な最期を与えた。

この映画にはローレン・バコールも出演していて、彼女が00年代にも第一線で仕事を続けていたとおもうと、カトリーヌのときのようにうれしいきもちになりました。