ほんとうに暗い話だから簡潔に書く。
前半は割愛。

絶望したわたしと一緒に母はビルから飛び降りてくれた。
母は美容室に行ったばかりのようで髪の毛を短く整えていて、新しい服を着ていた。水色と白のストライプのブラウスも紺のスラックスもスニーカーもはじめて見るものだった。

わたしは申し訳なく思った。
この人を捨てきれずにこんな目に合わせてしまうことに。母の人生に占めるわたしの割合はそんなに大きなものではなかったから。彼女にはわたしより大切なものがあったのに、そしてそのわたしより大切なものが、わたしと添い遂げるようにと彼女を突き動かしたのだと思うと、さらにわたしは忍びなかった。母は死をまっとうに恐れていたと思う。

放っておいて、と言えなかった。母がいてくれるほうが、やはりどうしたって慰みになった。

バイオリン教室でうまく弾けなかった日の帰り道、母はいつも唇をぎゅっと結び、一言も言葉を発さずにまっすぐ前を見て車のハンドルを握っていた。母はぬいぐるみのくまのような顔立ちをしているので、こわい顔をしてもどこか愛嬌があり、子どもながらにそのアンバランスさが痛々しかった。
わたしは母のその顔を見るといつも、心臓がぎりぎりと縮むようだった。

飛び降りる直前、母はあのおびただしい帰り道とそっくり同じ顔でわたしを見つめていた。その顔を見るのは久しぶりで、わたしは言葉が失った。そういえば、うまく弾けない言い訳をわたしはできた試しがなかった。

そしてわたしは、母のつめたく柔らかな本物そのものの手を握って、落ちた。
落下している間じゅう、意識があった。高いところから飛び降りると、途中で意識を失うというが、嘘だったようだ。
できの悪い絵本のなかのような風景を眺めていた、わたしたちは一軒家の赤い屋根すれすれのところを通過した。

わたしは頭から地面へ激突した。わたしは全身毛むくじゃらでその毛に守られて死ねなかった(前半の悪夢は毛むくじゃらになってしまう過程)。隣で母だけぐしゃぐしゃになって死んでいた。