『ヤンソンとムーミンのアトリエ』

絵本のような写真集だった。講談社から2013年に刊行されていて、写真と文を手掛けた写真家・木之下晃は今年の一月に亡くなっている。

表題どおり、アトリエの風景がおさめられている。カット数はそう多くなく、文章量も少ない。そのどちらも、わたしには重要で記憶すべき情報に感じられず、するすると読み終えてしまった。そっけのない本で、写真にも文章にも、すこしも個性や技巧は見いだせず、拍子抜けしてしまった。

それでいて、読み終えたあと、ものすごいエネルギーでトーべに、彼女を取り巻く空気に惹かれていることに気がつく。ムーミン谷シリーズが読みたくなる。手元にないので、しかたなくわたしは何度もこの写真集を見返す。袖のひろがったシャツと、パンツスタイルの、すらりとした老トーべ。わたしの大好きな、昔から親密にしているトーべ・ヤンソン。すごく独特な目もと、思いきり広がる口角、襟もとのブローチも、うつくしい銀髪も、指にはさんだ煙草も、とにかくぜんぶ、気配が濃いのだ。そういった要素すべてが、否応なく調和して、その整然とした調和から、じっさいムーミン谷のおはなしと同じ程度に密閉された物語性を感じる。

アトリエの風景はほんとうに素敵。家具はどれも重厚で、年代物というたたずまいだけれど、重々しいとか、暗いという印象はまったくない。ムーミンのオブジェがいたるところにあるからかな。それともトーべがいっしょに写りこんでいるからかな。

窓はとくにすばらしい。大きくて、細長いかまぼこ型のつくりをしていて、部屋にいくつもおなじかたちの窓がならんでいる。そのへりに所せましと花を植えた鉢が置かれていて、すごく憧れてしまった。花って総じて苦手だけれど、花のある生活には憧れる。

壁いちめんの本棚も立派だった。いつか家を建てる日が来るなら、どんなに小さくても構わないから、図書室がほしい。映写室はいらないけれど、図書室がほしいとおもうのは、本がたくさんある部屋では、呼吸がしずかに行えるからだとおもう。呼吸がしずかになるのは、紙が木からできているからだろうか。つねひごろから、気になっている疑問。

何度もページをめくるうちに、写真の見え方も変わってきた。木之下晃の被写体へのアプローチは控えめで、写真集のなかでトーべをアップで写している写真は、わたしがこの文章の上に載せているもの一枚しかなかった。この写真は、あまりに大胆に被写体に踏み込んでいるが、逆にいえば、この一枚だけなのだ。あとの写真は、まるでおそるおそるトーべに近づき、そんな彼をトーべが笑って迎えている、そんなふうに見えてくる。もしかすると、アトリエを写そうとして、引きの構図が多いだけかもしれないが、その距離感が、じつに心地よく、わたしは木之下晃がすごく礼儀正しい写真家のように感じられた。

カメラと被写体が親密すぎる芸術家のポートレートが、あまり好きではない。カメラの前で、好きな画家が優秀なモデルになるなんて、わたしはなんだか嫌なんです。

でもこの写真は好きになった。トーべがおばあちゃんだからかも知れない。若いうちのトーべが、こんなふうに写真に収まるところはよく想像できない。トーべ・ヤンソンの作品やその姿を目にすると、わたしはいつも家族や愛のことを思う。そんなところへわたしを立ち返らせてくれるのはトーべだけだ。そういった人物や作品とめぐりあえたことはとても幸運なことだとおもう。

それにいまのわたしには、もっととくべつなトーべもいる。うちのトーべもトーべ然としていて、ご近所さんからも、名前を褒められたりしている。我ながらいいネーミングセンス。