冬の光

イングマール・ベルイマン監督の『冬の光』を観る。

 

ベルイマンの映画への思い入れについてすこし書く。ベルイマン映画との出会いを、わたしはとても大事におもっている。

人生でいちばん大きな感動は、いつも過去のなかにあった。もちろん、あたらしいものにも否応なくたくさん出会ってきたけれど、10代のなか頃に、またたくまに出会った20世紀の映画監督の映画たちほど、ただしい意味でわたしに直接作用してくれたものはなかったとおもう。ゴダールやトリュフォーにも、旧友に対するようにごく親密な感情をいだいているけれど、ベルイマンとフェリーニの力は絶大だ。これから先の人生も、彼らに彩られたものであることを切に望んでいる。映画に携わる仕事はだから望まなかった。なにかを生み出す人間になれなかったことを、ときどきおそろしいことに感じることもあるけれど、それでもわたしは天分みたいなものをちゃんと信じているので、後悔などはまちがっても出来ない。

通説だが、ベルイマンが撮る映画は、ごく個人的なものが多い。かれの映画を観ることは、かれについて考えることと同じようなことだとおもう。ベルイマンの作品は、かれの生い立ちを反映させたものが多々あることはよく知られているが、わたしはその反映に、いつもただ驚嘆させられているだけだ。

ここまで精密に、こども時代の意識や景色を保存してきて(もちろんベルイマンの子ども時代なんてたしかめようがないけれど、きっとぜったい正確でしょう)、それをなんの造作もなく映画のなかに移行できるなんて、こんなことができるひとを、映画の世界でもその他の創作の世界でも、わたしはベルイマン以外に知らない。とくにわたしが驚いてしまうのは、ベルイマンが特筆して不幸でも幸福でもない家庭で育ったという点にある。それは『ファーニーとアレクサンドル』などでじゅうぶんに読みとれる。

おそらく耐えがたいほど痛ましいことも、人生を一変してしまうような大事件もない、とりとめのない平温の記憶の断片を、ベルイマンはその温度を見事なまでに保持し続け、それを映画に移したときにさえ、率直すぎるまでのベルイマンの吐露(この場合の吐露とは、せりふもないようなただのワンカットなどを指す)は、わたしたちにそのひと肌のあたたかみを感じさせる。

 

『冬の光』について。

冒頭のミサのシーンは果てしなく長く、鑑賞後もこのシーンは強烈に記憶された。

独特の濃密な演出で、主演のグンナール・ビョルンストランドのうなじを映した長いアップでは、その肉の質感のおもみに息がつまる。ベルイマンの映画は、質感がいつも鮮烈で、とくに衣装なんかはほんとうによく質感表現が追求されているようにおもう。それと、やっぱり肉。ベルイマンが選ぶ女優は、いつも唇が印象的だ。ぼってりとしていて、顔を浸食するように伸びるおおきな唇で、その質感ばかり見入ってしまう。それにふしぎと、おなじ女優でも、ほかの監督の映画に出ているときには、そんなに唇が強烈に感じられない。これはわたしの思いこみかも知れないけれど。

また切り絵のようにいくどか現れる、荒涼とした景色も、沈黙の表現としてひじょうに美しかった。ひくい目線からカメラが映す、にごった水たまりと、枯れた木、ぼうっとした空のあまりのしずけさ。とつじょ空間の遠近感をなくしてしまって、茫然と立ちすくんでしまうときと、おなじ景色。わたしはときどきそういう景色に出会う。きっと、だれしも少なからず似たような風景を知っているのではないだろうか。

しずかな映画ではあるけれども、明瞭なストーリーでせりふも多いので、鑑賞後、登場人物たちのことばをしばらく反芻する。グンナール演じる牧師トーマスを慕う女教師マッタの長い手紙は相当ゆううつなもので、こんなにもなまなましい脚本がよく書けるものだと舌を巻く。手がかぶれて~のくだりはとくにすごい。正直なところ、すごいとしか言い表しようがない。

ほれぼれとするほどストーリー展開が洗練されていて、過不足のないことばたちで観客を主題に引きつけていく。最後のシーンの、下働きの年老いた男が語る聖書の解釈も、牧師の過去を知るオルガン弾きの淡々とした暴露も、とにかくタイミングもバランス感覚もよく、映画自体の完成度はすばらしく高い。そういう意味で、これはリアリズム映画というよりは舞台的で、きちんとすべての要素が意味深くことばに起こされている清潔感がある。それに比べ、最近の映画の意味があるのかないのか分からないような謎や難解さは、単純に下品なものだとわたしはおもっている。

この映画の主題とされている〈神の不在〉についてはさまざまなところであれこれ言及されているので、ここにだらだらと書くのはよしておく。難解な映画ではないし、観ればだれしもちゃんと解せられるようになっているから。