嘆きの天使
観たかった天使映画のひとつ。
来月にはブニュエルの『皆殺しの天使』が観られる!たのしみすぎて生きいそいでる。
わたしが今までに観た30年代の映画であらゆる意味でいちばん突出した映画だった。
映画がトラウマになったことは今までで一度だけ、一昨年に観たロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』だけだった。
この映画のことを考えるのはとても苦痛で、数年経った今でも、わたしはどうしてあそこまで追い詰められたのか、検証することさえできない。
この『嘆きの天使』はそれに比類する重みをもった映画だった。
若いマレーネがみたいななんてミーハーな気持ちで何の気なしに観ていると、だんだんと映画はわたしの望んだ領域をやぶって進んでゆき、気がついたときにはすっかり打ちのめされていた。
正確にいうと、純粋にこの映画に打ちのめされたというより、わたしがずっと映画を観続けるのは、こういう映画に少なからず突き当るからであり、そういう映画の推進力のつよさにわたしは愕然としたのだった。何度でも愕然とし続けている。
人間の尊厳についてシンプルに描いた映画だった。
そしてこの映画はマレーネの映画ではなく、スタンバーグとエミール・ヤニングスの映画である。
まだマルレーネと本名を名乗っていたマレーネはあくまで補助的な役割しか果たしていない。
それでも初々しい、健康的な魅力をもった彼女に出会える。彼女が眉を下げ、瞳に光を湛えながら歌う姿が、なぜか眩しく、切なく、まるでこれが“彼女の”悲劇であるかのようにわたしは感涙してしまった。
この後ハリウッドで英語を使い演技をするようになる際、彼女が相当な訓練を積んだことがわかる。
エミールは初代のオスカー受賞者で、この一作だけでも彼がどれだけの名優だったのかありありと伝わってきた。
ピエロの格好でニワトリの鳴き真似をした最後の舞台のシーン。シナリオ上、そうなるのだろうと予想はついていたけれど、どうかそこから逃げ出してほしい、と無益な願いをもった。そんなこと許されるはずがないと…、忘れられない光景だった。こんなふうに観客の思いを断ち切ったシーンをわたしは他に知らない。トリアーの映画とかとは、ほんとに比べものにならないくらいの強さだったんだから。
脚本に不可欠だったはずの要点がいくつか抜けているのが気にかかった。
・彼女は本当に彼を愛したのか
・もしそうなら何故か
・もしそうではなかったら何故彼と結婚したのか
・彼は何故他で職業について、建設的な人生を歩む気にならなかったのか
個人的にこの点さえ簡潔に説明してくれたのならこれは強力な悲劇の古典になっただろうなぁと思ったのだけれど・・・。
上の3点についてはまだ浅く納得ができる。
プロポーズのシーンのマレーネの高笑いで。自分を正しく見つめた女のかなしい姿だった。彼女は悪女なんかでは、全然なかったのだ。
こういう一瞬のシーンに、映画そのものが凝縮される。
彼は人生を得た。人生でもっとも幸福な点と、絶望の点を結んだ。彼が起伏のない教師人生を続けて生涯を閉じることと、わたしはその軌跡の希少さを比べざるを得ない。
同じことが『モロッコ』でもあった。
タキシードを着てシルクハットをかぶった男装のマレーネは、舞台のうえから彼を見つける。
マレーネはほんのすこしだけ口角を上げ、瞼をなかば閉じ彼を見下ろしていた。
彼女はそこに訪れていた運命を、諦めたように受け入れた。抵抗しなかった。彼に恋したのだ。
ここのシーンにも映画は凝縮される。スタンバーグはこの凝縮がとても上手なんだと思う。
この二人組の映画を観尽くしたいなと思う。