郵便配達は二度ベルを鳴らす

1942年製作のイタリア映画、ルキノ・ヴィスコンティ監督の長編処女作である。

先日、由布院へ遊びに行ったとき、宿で早めに夕ご飯をいただいて、夜は由布院では有名な宿のひとつである、亀の井別荘の敷地内にある「山猫」というバーでお酒を飲んだ。人生ではじめてのバーが、こんなにすてきなお店でよかった。生のざくろを使ったカクテルを出してくれた。
事前に調べていたときに、映画の題名かな?と思っていたが、行ってみると、店内にヴィスコンティの『山猫』の古いポスターが貼ってあったので、やはりヴィスコンティのこの映画から名前を取っているらしかった。ちなみにこのバーは、昼には「天上桟敷」という喫茶店を営業している。

それで、由布院からかわいい観光列車で帰宅してみると、ツタヤからこの映画が届いていた。半年くらいまえに登録していたので、この映画が送られてくることはすっかり忘れて、不思議な縁を感じた。ヴィスコンティの映画を観るのも5年ぶりくらいだった。

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』という印象的な題は、ジェームズ・M・ケインによる原作のほうの題であり、この映画の原題は、『Ossessione』といって、妄執という意味らしい。
ヴィスコンティは無断でこの小説を映像化したらしく、そのせいで長らくお蔵入りになっていたそうで、1979年に日本で初めて上映された際に、題名はケインの小説名に合わせたそうだ。

これが長編処女作というのは大きな驚きである。話しの内容からすると、ちょっと尺が長すぎるような気もするが、主要人物たちが生きる背景、当時のイタリアの地方に生きる人々の様子が、つよいリアリティをもって感じられた。とくに屋外でするボーリングの光景はおもしろかったなぁ。

主役のふたり、ジーノとジョヴァンナの人間臭さは、現代人としては観ていて苦しくなるものがあった。湿度が高い夏の日みたいで、この映画から逃げ出したくなる。
このふたりは、あまりに先見の明がなく、じぶんの感情をなによりも重視する。いったいどうしてここまで放縦であることを選択することができるのに、苦悩に満ちていられるのだろう。
思うに、最近こういう映画が苦手になってきた。フィルム・ノワール的といえばいいだろうか。破滅に向かう人々を観るのは、映画のなかといえども年に一回くらいでいい。
それでもカット割りや、カメラワーク、俳優の演技や音楽など、どれも活気に満ちていて、製作に生気がしっかりと宿っていて、その強さには恐れ入った。
ラストシーンがやはり衝撃的だったが、あの劇的な音楽の挿入で、このラストまでの伏線がいかに見事だったのかを思い知らされる。

成瀬巳喜男の『浮雲』にすこし似ていたように思う。昔、この映画の感想を書いたときも、好きになれなかったと書いたが。
ジョヴァンナと高峰秀子もなんとなく似ている。ジョヴァンナ役のクララ・カラマイの気だるそうな表情と身ぶりはすごかった。観ているこちらが毒されそうなほどで、ジーノがなぜ彼女とあんなふうに激しく恋に落ちたのかも分からない。ただ、その出会いがなんの理由なく、電撃的だったのは確かだ。ふたりであそこまで行き着いたのだから。題名がそれを物語っている。

いかめしいことばであまり好きではないが、典型的な因果応報のストーリーである。
ジョヴァンナは、映画の終盤で、妊娠して初めて生きることのまっとうな喜びを感じて、事故で死ぬ直前でも、生の喜びを痛々しいまでに主張している。そしてその直後、あまりに呆気なく彼女は死に、ジーナはつけられていた警察に、旦那殺しの容疑で逮捕される。

ほんとうの罪を負ったのは、ジーナだけのように見える。いまだかつて、死が正しい意味で報復だったことなどあっただろうか。
追われているあのふたりが、無事にこどもを生み、名前を偽りながら、どこか違う土地で、円満な家庭生活を築けるとは考えづらい。
そうなると、ジョヴァンナとお腹の子どもはある意味で、その現実のきびしさから放免されている。生きていても叶いそうにもない夢物語を信じて死んでいった。
それに比べ、ジーナに返ってきた因果は、あまりに酷である。その差は、旦那殺しのあとに、ジョヴァンナを見放して、違う女と関係を持ったから?

ジョヴァンナは、殺した夫の食堂を離れようとしなかった。遅かれ早かれふたりは警察に追われることになっただろうが、でもあそこに留まったことにより、あっけなくふたりはみずからの破滅を招くことになった。ジョヴァンナは、わたしには帰るところがないといけないの、と切に主張した気もちが、わたしにはこの映画の究極性を助長するものだと思う。夫を殺すという大胆なことはできても、家がなければ生きていけないという女。映画を観ていると、ジーナと放浪の旅に出れば、彼を失うこともないし、安全じゃないかと思わざるを得ないが、それでもジョヴァンナがあの食堂を離れることに決心がつかなかったわけも十分によく分かる。そういう生きものなのだ。(いまの女性は、そういう意味じゃあ、勇敢というのか、鈍ちんというのか・・・。)
わたしは放浪やひとり旅なんて、もう御免だと思っている。じぶんの人生で、今後また出かけなければいけないときが来るかもしれないが、少なくとも今はそのときではない。あえて知らない土地に、ひとりぼっちで赴かなくても、ちゃんと一人前に、目を曇らせずに、物事をシンプルに解して受けとめられればいいと思っている。

ドラマティックな話しなので、いろいろと考えは尽きないが、この辺でおしまいにします。