キッチン・ストーリー

どうしてこんなにやさしい映画が撮れるんだろう。
題名のとおり、キッチンでのささやかすぎる出来事に終始するのに、こんなにも人と出会いたいと思える。
小学生のときから、ニートみたいだねと言われてきたわたしが、外に出かけたいと思える映画だった。

映画はいつも途方もなくすごい。奇跡みたいだと思う。たったの100円で借りられるあのうすい円盤が、わたしに異次元の2時間を与えてくれる。そこはまったく知らないところなのだ。
最近はそれにも慣れきってしまっていて忘れてしまいそうになるが、こんなにすばらしいものはそうめったにないことなのだと思う。わたしの人生に与えられた宝物のひとつだ。映画を愉しめる能力。
そのぶん、じぶんの人生をおろそかにしてしまっているかもしれないが、いつかこの蓄積が、わたしに現実世界ですてきなものをもたらしてくれるとどこかで信じている。
信じている、というか予感できている。

この映画について。

1月に読んだ、武田 龍夫の『物語 北欧の歴史―モデル国家の生成』(中公新書)が、この鑑賞を多いに助けてくれた。いい本読んだなぁ~、と思えてうれしかった。
スウェーデンとノルウェーの歴史的な関係については、この本の内容がかろうじてまだ頭に残っていて、それぞれの国のカラーもなんとなくだが理解できたので、映画を観ながら愉しめたほうだと思う。
監督のベント・ハーメルは、ノルウェーの出身だが、ストックホルムの大学で、映画や文学の勉強をしている。
主演のイザックはノルウェー演劇界の重鎮ヨアヒム・カルメイヤー、その相手役はスウェーデンの俳優トーマス・ノーシュトロームである。わたしはこのふたりの俳優のことをなにひとつ知らないが、こんなにすてきな二人組を観たのははじめてだ。とくにトーマス・ノーシュトロームは、画面に登場した際に、あまりにステレオタイプな禿げた白人のおじさんという感じで目を見張った。のちに見たインタビューで監督も言っているが、トーマスの風貌はいまや希少なヨーロッパのどこにでもいるおじさんだ。
ふたりの存在は、台詞もなくただ画面にふたりがいるだけで、なんだかうれしい気分になるものだった。

それにしても、北欧の人々のユーモアはなんて爽快なんだろう。
アキ・カウリスマキの映画などでも感じることだけれど、北欧映画のユーモアって、颯爽として、空気を濁さない。
ほんとうに愉しい気もちで笑えて、こんなふうにはなかなか笑えないぞ、と思う。
やり方に造作がないのだ。だから上品に、個性が立つ。
ゆううつな暗さなのに、その暗さの色味のうつくしい統一感とあたたかみは中毒性がたかい。
ユーモアにも格があるんだなぁと思わされる。
途切れ途切れのことばでしか語れないけれど、そんなかんじにすてきだった。
おじさんが新入りのおじさんに仲良しのおじさんを取られたと思ってやきもちを焼き、新入りのおじさんを線路に放置するシーンはとくによかったなぁ。

それと、気に入った台詞群がある。

「電気はよく停電する。ポテトがどうしても茹であがらない。原子力はどうかね、こげる?」
「電気は電気だよ」
「電気は電気だと!そんなカンタンじゃない」
「ポテトを茹でないじゃないか?」
「見張られている間は茹でない。スエーデン人には分るまい、戦争も中立で傍観していた」
「その通りさ、残念だが」

見張られている間は茹でない!
わたしもいつか、このふたりみたいに詞を用いたいものだ。

(スウェーデンの必死の中立と、それによる周辺国への影響は、本で読んで興味深かったところのひとつだ。)

わたしはいつも、友情というものにとくべつな羨望の念を抱いている。ずっとむかしから、たぶん物心ついたときから。
憧れずにはいられなかった。きっとすてきな恋人はいつか出来ると思っていたが、本物の友だちがやってくることはないと、どこかで知っていた。それはファンタジーの領域だと。

よく言われることばで、「友だちは財産だ」というのがあるが、わたしはこの発想を心の底から憎悪している。
まるで、そのひとをじぶんがすっぽり所有しているみたいな気がしてぞっとするのだ。
そして友情を有意義なものと見なすなんて、利己的だ。第一、友だちというものに、いい影響ばかり及ぼされようなんて、そんなの子どもじみている。わたしはそんなこと耐えられない。むしろ友情は、つまらない道を踏み外すためにあってほしい。だからわたしはいつも、友情のために道を踏み外しているつもりだ。

友だちとは、もっともっとクールなものだと確信している。メイとトトロの関係みたいに。
ごく個人的で、脱社会的で、よその世界の理解や共感なんて、そこでは何の価値もない。

この映画のなかで、スウェーデン人の調査員であるおとなしく理性的なフォルケは、最後には聞かんぼうの反逆児のようにして会社をやめてしまう。
そしてノルウェー人のイザックのもとへ帰るのだ。イザックにとってはつらい一日だった。愛馬を、行かせてしまう日だった。フォルケにとって、それはまぎれもない帰宅だったのだと思う。
鼻血の止まらない老馬に、イザックが口づけをして話しかけるシーンでは涙が止まらなかった。
人間でも延命治療を行わず、尊厳死に対して理解を示すこの国の人々は、きっと死をごく自然に、まっとうに受けとめられるのだ。
わたしは人間としてこんなに豊かなことはない、と思う。感情表現の正しすぎる映画だった。
書きたいことはたくさんあるんだけれど、また考えがまとまったら書き足そう。