パウル・ツェランを読む

まず静地社から出ている詩集『罌粟と記憶』を借りて、自力では読めないことが判り、相原勝氏による解説書『ツェランの詩を読みほどく』(みすず書房)を借りた。
この解説書は、ツェランの詩を初期から順に読み解いてゆくもので、あとがきの言葉までじっくりと味わうことのできるよい本だった。

ツェランの詩から思うことももちろんたくさんあるけれど、今回はツェランについてまとめてみることにした。

パウル・ツェランはホロコーストを生き延び、アウシュヴィッツ以後の世界で詩を編み続けたチェルノヴィッツ出身のドイツ系ユダヤ人である。

両親は収容所で殺害され、かれのいたチェルノヴィッツは終戦の一年前にソ連領となり、その地で25歳のときに終戦を迎える。
戦後はフランスに移住し、カトリック教徒のフランス人女性と結婚し、男児を授かる。
1953年にイヴァン・ゴルの未亡人クレール・ゴルによる剽窃中傷事件『ゴル事件』を契機に、徐々に精神に異常を来す。
そして62年、42歳のときに自分が統合失調症であることを受け入れ、初入院。以後、自殺までの7年間入退院を繰り返す。
幾度かの自殺未遂のあと、1970年、49歳の春、ミラボー橋からセーヌ川へ投身自殺した。

相原氏の解説書に、とても詳しい年譜があり、それをかいつまんでまとめてみた。
ツェランがどのような作家に影響を受け、どのような土地をめぐり、どのような人物たちと交流したのか。
ツェランに関する本を読んだのは初めてだったけれど、一冊の詩集と一冊の解説書だけで、随分とかれとその詩にのめり込むことができた。

小説は外国のものばかり読んできたけれど、詩に関しては日本の詩人ばかりに親しんできたので、今回の読書は得るものが大きかった。
わたしの詩の味わい方は、イコール日本語を味わっていただけだったので。
詩について思索することがこんなにも実り多いこととは思ってもみなかった。
落ち着いた場所でしっかりと集中するだけで、判ることも多いのだと久しぶりに思い出した。

ツェランの詩は、とくに後期の詩は、表面を撫でるだけではまるでなにも読み取れないが、ただいくつかのキーワード 、アナグラムを念頭におけば意外なほど読み取れる範囲が広い。
そのツェランの言語のルールは相原氏は提示してくれているので、読者は慎重にそれをつなぎ合わせていけばいいのだ。

ツェランは若い頃からリルケの詩にもっとも親しみ、後年はカフカやランボーに熱心だった。同時代人のテオドール・アドルノやハイデッカーとも交流を持ち、またシュールレアリズム、キュビズムといった動向や、ゴッホやグリューネヴァルトといった画家たちに影響を受けた作品も残している。

そして繰り返し繰り返し紡がれるテーマは、キリストの磔、そして収容所でうなじを撃ち抜かれ死んだかれの母親である。

殺害された母親を通してホロコーストを書いた詩は、なんの解説もなく読める素朴なものも多い。そういう詩は、ほとんど美しいくらいだ。
読んだもののなかだけでもたくさんあるので挙げ切れないが、とくに好きだったものは『手のひらに』や『ヤマナラシ』、『あなたからの私への歳月』など。
ツェランの詩はほとんどが聖書やヨシュア記、創世記、マタイによる福音書といった聖典に由来していて、とくにイエスの最期の場面『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』はかれの詩にとって最も重要なモチーフとして繰り返し現れる。
ツェランは、キリスト教によって祭り上げられたキリストではなく、『何者でもない者』としてのキリストを我が身(詩人)に置き換え詩を書いた。

わたしがとくに興味深く思ったことは、かれがホロコーストだけではなく、イスラエルについて、水爆実験や人工衛星の打ち上げに関しての詩も多く残したことだ。
かれはイスラエル建国ついて、消極的な意見を持っていた。それはかれがシオニズムと距離を取っていたからで、それゆえかれの葬儀でも宗教的な儀式は執り行われなかった。
ツェランに生涯で一度しかイスラエルに訪れていないが、深い孤独感を味わった。
かれの年譜を追いながら、わたしはツェランが、ホロコーストではなく、その後の世界に絶望して命を絶ったことを強烈に意識した。

ツェランの詩は、ドイツ語を母国語としたホロコーストを実際に体験したひとにもっとも深く届くだろう。これは当然のことで、わたしがツェランの詩に近づくにはあまりに早いところに限界がある。

ツェランの詩を読むとき、だからじぶんのもつ記憶のなかでもっともつらく悲しいものを呼び起こすほかないのだ。その詳細などはぜんぜん必要なく、その色が重要なだけだ。そんなふうにわたしはツェランの詩にふれた。できるところまで体験したかった。
だからこの一週間はとてもつらい一週間で、人前で涙がこらえきれないときもあった。

すこしニーチェを彷彿とすることば。
けれどわたしはツェランのこのことばのほうがより大きい意味を得ることができた。

「本当の出会いがあるとき、それは実際の再会なのです。……わたしはここで、何か決定的なことが明らかになったと考えているのです。つまり、再会がはじめて、出会いを出会いにするのだということです」