フランソワーズ・サガン の『ある微笑』

サガンのデビュー2作目。

読み始めてすぐ、なんとなく似たものを読んだことがあるなぁと思い、すぐに思い至った。
パトリシア・ハイスミスの『キャロル』だ。
『キャロル』のほうが4年ほど早く世に出ている。
言うまでもなく、『キャロル』のほうがよっぽど小説として出来はいい。

むかしから、パリよりもニューヨークが好きだった。
パリが舞台の映画よりも、ニューヨークが舞台の映画のほうがよっぽど好きだし、小説もそうなのかも知れないと思った。

しかしサガンのデビュー作『悲しみよ こんにちは』と比較するなら『ある微笑』のほうが良作だった。

女子大生が中年の既婚の男性に恋をし、そして失恋するというお話だ。
こんなに地味な話を2作目に書けるなんて、大胆な作家だと思う。サガンは、一般的な評価よりも能力の高い作家だとわたしは思う。

『キャロル』となにが似ているかというと、主人公が捨てる若いボーイフレンド、『キャロル』のリチャードと『ある微笑』のベルトランがそっくりなのだ。
そして主人公たちの自意識の抱き方、その変化の過程もきわめて近い。
どちらもシンプルな恋愛小説であるから、きっとある程度の読者は体験したことのある感情を見つけるはずだ。

わたしにとっても『ある微笑』はその連続だった。
あまりにありふれた話でありながら、きびしく物語が立っていたので感動した。

〈私はこの事件が他の重要な面を持っているとは思わなかった。私の知らない、憐れな、否、憐れですらない、平凡な悲しい面を。この事件はわたしに属したことだと信じていた。しかし、私はかれらの生活について何も知らなかったのだ。〉

このセンテンスは小説の最後あたりに、不倫相手の妻フランソワーズ(じぶんのペンネームと同じ名を、この女性に与えたサガンはほんとうに、なんというか、ひねくれ者だと思うし、感覚がひどく若い)と会話するシーンのものだ。

事件とは、その中年男との恋のことだ。
これは不倫の本質を冷静に言い得ていると思う。
不倫とは、これ以上でも以下のことでもないのだ。過不足なく、これだけのことなのだと思う。

ラストの軽やかさには胸が塞がれた。
塞がれて、苦笑した。

主人公は、モーツァルトにより微笑を得る。
わたしもまったく同じ経験をしたことがあった。
だいぶ昔のことだけれど、ひとりのヴァイオリニストの音を聴いて、失恋から立ち直ったことがあった。涙は止まらなかったけれど、感動してじぶんが泣いていることがじゅうぶんに分かった。そのとき、ほとんど幸福だとも思った。こんな状態だったから、こんなに完全にこの音楽を聴けたのだと。

結局、美しいものだけが、ひとを救済する力を持っているということをこのとき初めてつよく意識した。美とはあらゆるものに含まれ、ひそんでいるもので、そのかたちは人によってそれぞれだろうけれど。