フランソワーズ・サガン 『悲しみよ こんにちは』

はじめてサガンの著作を読んだ。
すこし前に彼女のインタビュー集を読み、不出来な伝記映画まで観たので、この小説を読まないわけにはいかなかった。

17歳の少女が書いた、ということをあまり念頭に置かないで感想を書く。それは作家に対しても礼儀正しいことでしょうから。

全体的に、うつくしい蛇足の連続だった。
だからこの小説は、優美でたよりなげな足をたくさんくっつけた奇妙で繊細な蛇のようだった。

わたしにとって、小説や映画の美しさというものは、色彩とつよく結びついてるのだけど、この小説はふしぎと色彩がよわい。色の主張はたしかになかったようにおもう。そして音もなかった。

それで質感の主張はずいぶんと強烈だった。
恋人との愛撫、海水とのたわむれ、車のシートの感触、そんなものが随所でとてもするどく、登場人物たちの軽薄さとの対比が息苦しいほど重々しく本物の夏が描かれている。

ずたずたになったアンヌがセシルの頰に触れる最後の場面なんか、大した文字数はないし、まったく凝ったところのない文章であるのに、たしかにセシルの頰に手を伸ばすアンヌを目撃する。

サガンがあのような最期を遂げる予感はじゅうぶんに含まれている。
セシルのほんとうの狂気は、アンヌを冷静に賛美していたことだろう。
サガンはひとを憎んだり恨んだりすることができなかった。それはひとを死に追いやるよりもよっぽど下等なことなのだろう。

アンニュイということばを初めて知ったとき、なんて色っぽく大人びたことばなんだろうと感動したことを覚えている。
それから、なんどか思い切ってこのことばを口にしてみたことはあるが、いつでもこのことばは宙ぶらりんになり、わたしはその過ちに100年遅れで気づき、恥ずかしい思いをした。

サガンはみごとにアンニュイを正確に、一寸の狂いもなく物語に仕立てあげた。アンニュイとはまさにこの小説のことである。