小間使の日記

すごく久々のジャンヌ・モロー。
ブログを始めてから彼女の映画を観るのは今回が初かな?とにかくすごい!わくわくした。
オープニングのクレジットが流れているあいだ、まるで忘れていた恋をにわかに思い出したような気分だった。
(こんな些細なことでこんなに盛り上がれる自分ってすごいと思う)

ジャンヌとの対面はいつも贅沢な気持ちにさせてもらえる。この映画は『鬼火』とほぼ同時期に撮られていて、すでに30代後半であるにもかかわらず、なんて自然にゴージャスなままのこと!

ジャンヌの老けが頬にでる顔つきが、この瞳のしたのたるみが、わたしはとても好き。疲れた女が色っぽく見えるとは、まさにこのことだと思う。疲れた顔つきのなかで、眼だけがするどく澄んでいてどきっとする。

映画中で、ジャンヌはほとんどメイド服を着ているんだけど、このメイド服のデザインがよくって(小さな襟やら絶妙なスカート丈やら)、カチューシャふうにつけたフリルのリボン然り短髪の彼女にほんとによく似合っていた。

そろそろ映画の話に入る。

思いのほか見やすい映画だった。
ブニュエルのほかの映画は夢や幻想のシーンが多いので、ぼーっと見ていたら何が何だかみたいになっちゃうけれど、この映画はほぼ現実で終始していた。入り組んだ構成もなかったし、そのぶんいつもよりも考察を深められたように思う。

ジャンヌ演じるセレスティーヌはふしぎな女性だ。
単純なようで掴みどころがなく、なにを考えているのかいまいち分からない。
タイトルはあくまで彼女の『日記』であるのに、彼女の心の移ろいは仮定でしか捉えられない。
それでもセレスティーヌが、実際に憎悪しながらも、大義名分を持ちながら近づいているにしても、ジョゼフに肉体的に惹かれていっているのは読みとれる。この環境からすれば、それも無理ないことだとも思い、あまりセレスティーヌの感情の移ろいに疑問は抱かない。
ジョゼフはたしかにある種の魅力をじゅうぶんに湛えている。それが殺人の一件でさらに強調されているところもよく分かる。
こういう魅力の描き方は、脚本家のいい仕事だな〜と思う。

一見尻軽のようで、セレスティーヌは作中の男たちを徹底して軽蔑し、おそらく男全般に対して価値を見出せないでいる。
セレスティーヌは、これはじわりと理解するのだが、おどろくほど廃れていないのだ。

この辺りの雰囲気づくりが、まさにジャンヌにうってつけで素晴らしかった。真に魅力的だった。

どの登場人物たちも、胸焼けするほどにオリジナリティが立っていて、前々世紀の良質な貴族小説のように密度があってよかった。
脚本家はジャン=クロード・カリエールで、現在も現役で仕事をしている。

『ブルジョワジーの密かな愉しみ』と同じくらい気に入った。
ブニュエルのブルジョワ批判は、わたしには生まれついての筋金入り劣等児を見守るような、柔らかい感情に思われる。
近しいものだったからこそ、そこに焦点を当てて長年制作を続けてきたのだろうけれど、もはや批判ではなく諦念に近いのではないかと思う。

ところで、この作品の原作はオクターヴ・ミルボーというフランスのジャーナリストによって書かれている。
この映画は1930年代が舞台だが、原作は1890年代の設定になっている。

解説のなかでブニュエルが若年期に親しんだ作家が3人挙げられたが、いずれも知らない作家だった。
ミルボー、ユイスマンス、ピエール・ルイス。
読まず観ずで死んだらそれなら生まれてこなきゃよかったと思っちゃう本と映画で埋もれてる。