シテール島への船出

もの悲しい映画だった。
こういう映画を観るたびに、ヨーロッパの抱える歴史の重みを痛感する。

日本人は他者に何ものも奪われたことがないのだろう。大戦の代償は、わたしには当然のもののように思う。日本がどこにあるのかも知らないようなひとびとに、日本はまるで天災のような真似をしたのに、わたし達は失くしたものばかり悼むことができるだろうか?
日本人のかかえる望郷の色彩はだから軽い。
望郷はセンチメンタルの域を出ない。

失われたものは戻らない。
当然のように理解していたことを理解できなくなるのは、まったく知らないという状況より深刻なものだ。
こういう国消滅系の映画は、ヨーロッパ映画の凄みをよく感じられる。
同じ系統の映画でクストリッツァの『アンダーグラウンド』を彷彿とした。
あくなき外国の干渉と、それに並行し長引く内戦により、ユーゴスラビアは消滅した。
アンゲロプロスとはほぼ正反対のような印象の映画をつくる監督だが、鑑賞後に味わったあの茫漠とした虚無感はおなじ性質のものだった。
ギリシャの場合は国家はかわらずに存続したが、かれらの「祖国」はユーゴスラビア同様に失われた。共産主義の敗北は、夢みるひとびとにとってあまりにも大きすぎる敗北だったのだろう。

テオ・アンゲロプロスの映画はたしかに冗長で並外れて退屈だけれど、とても分かりすいつくりをしていると思う。主題は明瞭に提示されているし、意図的に難解に細工しているような印象はぜんぜんない。
退屈映画のレジェンド、ゴダールの退屈さは、主題の見えづらさも手伝っていると思うけれど、アンゲロプロスのはそれがない。
アンゲロプロスのそういう誠実さがわたしはとても好き。

この映画の主人公の老人は、アンゲロプロスの父がモデルになっているらしい。
父親を描いた話って、どれもだいたい気に入っている。
タヴィアーニ兄弟の『パードレ・パドローネ』やエリセの『エル・スール』、小津安二郎の撮った笠智衆など。
父親として、うまく生きれない男のひとにわたしは惹かれているのだと思う。
わたしは、じぶんの父親に対して、ほかの誰よりも優しくできるから。

アンゲロプロスの父親は、大戦中はレジスタンスとしてナチスに対抗し、大戦直後には共産主義者として内戦で戦ったが、右派に敗れ死刑判決を受ける。
ここまでは父親の実際の人生のようだが、ソ連への亡命は現実にあったことなのか定かではない。

強烈なショットがいくつかあった。
どのシーンの構図も冷徹で遊びがなく、どこもかしも映画的な絵で、アンゲロプロスは好みな映像をつくる作家だ。
主人公が故郷の村で、久しぶりに再会した旧友と墓をめぐり亡くなった友人たちにあいさつをくり返す。
そして旧友とふるい民謡を歌い、踊りはじめる。
かれらの周りには、点々と十字架の墓標があり、両手を広げて踊る主人公の姿はその十字架たちに馴染み、遠目からのショットではかれ自身もまるでゆれる十字架のように見える。

そしてこの映画の象徴とも言える灰色の海の上に浮かぶ老人のシーンには胸をふさがれた。むろん、さすがに80年代のギリシャでこんな野蛮なことは起きないでしょうけれど、しかし映像作品のなかでシンボルを生み出すやり方としては秀逸だった。
その思想のために人生を投げうち、あまりにも長い年月を経て、裏切られる。
なによりも守りたかった故郷はすでに自分の手からはあまりに遠いところにある。
その土を踏んでも、かれは故郷には帰れない。
老人は分からぬふりをする術も沈黙する術もあきらめる術も知らず、あの海までやってきた。
そしてその妻はかれになにかを強要しようとするにはあまりに聡明すぎた。
周囲が思うほどに、このシーンはふたりにとって悲壮なものではないのだろう。
すくなくとも妻にとっては、もう老人のそばにいられるのだから。
もう待つことも、かれがいつ離れていってしまうかと怯えることもないのだ。彼女の人生において、このときほど気持ちがやわらいだことはないだろう。

『永遠と一日』の作中で何度も流れた曲が、同じように繰り返し使われていたことに気がついた。
映画のはじまりに子ども時代の回想シーンをもってくるところや、カメラが一点からゆっくりアップになったり引いたりする手法も同じだった。

それと『永遠と一日』を見たときにも思ったけれど、ずいぶんかわいい部屋が見られる。
『永遠と一日』では娘と娘婿の家で、この映画では映画監督の家だ。
インテリアも完璧。映画監督の寝室のつくりは宇宙船みたいだったな。