塀の中のジュリアス・シーザー

タヴィアーニ兄弟の2012年の映画。
ベルリンで金熊賞を撮っている。ベルリンは、奇抜な映画にグランプリを与える傾向?さいきんよくそう感じる。

イタリアのレビッビア刑所で、年に一度、重犯罪者たちが、演劇に取り組む。
かれらは、マフィアだったり、麻薬取引だったり、殺人を犯したりしたような人物たちで、多くが重い判決を受けている。
なかには、終身刑のものもいる。そんな男たちが、半年の稽古を積み、一般人も観劇に来る本番に備えて、シェイクスピアのキャラクターを骨の髄まで演じ切ろうとする。

これは、実話だとか、獄中だとか、そういう一見目につく要素を無視して、現代のシェイクスピア劇としてみるとおもしろい気がする。
シェイクスピアの戯曲は、ふつうの人生を歩んできた現代の役者には、役が重すぎるという兄弟の意図が感じられる。
これは、だからシェイクスピアを、等身大のレベルで感受できる現代では数少ない男たちによる、密なシェイクスピア劇だったのだと思う。

じっさい、圧巻の演技だった。
シーザーとブルータスはとくに。彼らのもつ肉体の生臭さのようなものを強烈に感じた。ブルータスの目のつよさは稀に見るもので、よくある舞台役者の小手先のへんな演技とは比べられないものだった。

役者たちは一様に、死やそれに類似する破綻を味わった者たちで、役になりきるというあまりに聞き慣れた言葉の意味がよく提示されていた。
かれらにとって、ちいさな箱のなかだけの自身の人生はもう薄く摑みどころのないものになってしまっていて。かれらは、役の中でしかもはや本当の意味で生きることができない。
カタルシスということばを乗り越えた現象のように思う。

カメラワークが秀逸だった。
劇にのめりこめるだけのめりこんでいる瞬間、演出側の姿を見せる。とてもたのしかった。

芸術を知ったときから、この監房は牢獄となった。

本番が終わり、大喝采ののち、じぶんの独房に戻る役者たち。
その一人であり、もともとプロの役者であったキャシアス役の男が、カメラに向かってつぶやく。
そしてエンドロール。シンプルなことばだけれど、この映画を的確にまとめたせりふだった。