夜半の公園、パレストリーナ

一歳児がいると笑ってしまうくらい荷ほどきが捗らない。一瞬目を離した隙に、ちゃんといちばん触ってほしくないものを持っているからふしぎだ。

きょうはお昼から夕方まで託児所に預けて、そのあいだに寝室を片付けきった。寝室さえ済ませば、あとは夜中のらりくらり片付けていけばいいからな。目標は、今年中なので、そしたら大掃除もしなくて済むし。どういう理屈か自分でもよくわからないけれど。

それで夜は散歩へ出る。引っ越した日から、パレストリーナの賛美歌ばかりを聴いている。しっかりと夜の更けた公園で聴くパレストリーナは格別で、公園の景色はおどろくほどに意味深く美しさを増し、圧倒というよりはつぶされてのみこまれてしまって、茫然自失となる。はたから見れば、もはや散歩ではなく徘徊といった風情だと思う。

わたしをとりまく現実はにわかに遠ざかり、書斎で猫をひざにのせて仕事をしているであろう夫や、あのあたたかな部屋で眠っている娘の存在を、おぼろげにしか感じられなくなる。笑いながら(うちの犬は散歩中に笑っている)となりを歩く犬だけが、わたしと現実の環境をつなぐもののように感じられ、正気を保つためにときどき意味なく犬に「かわいい犬だったねえ」だの「さむいねえ」だの声をかける。なんだろう、子どもが本気でこっくりさんでもしているようなかんじなのかな。そういうちょっとこの世ならざる時空に片足を突っ込んでしまった感がある。わたしはつねに薬物の代用品を探求しているのだけど、これはけっこう近いんじゃないかと思う。

パレストリーナは親友が教えてくれて知った作曲家で、名前が美人だという話しをした。ルネサンス後期にイタリアで活動したひとで、見た目は音楽家というよりは、外交官とか植物学者のよう。植物学者というか、カルロス・クルシウスに似ていたのか。