モンテーニュ 『エセー』

ミシェル・ド・モンテーニュが1580年に刊行した『エセー』の岩波文庫版第一巻を読む。原二郎訳。

当初の予定は一気に六巻まるまる読んでしまうつもりだったが、予定変更で、少し間をおいて三巻だけを読むことにする。
モンテーニュにはとても親密さを覚えた。1533年に生まれ1592年に亡くなった人間であるわりに、ということだけれど、その親密さというのは、この著作を好きになったという意味とはぜんぜん違う。
むしろ、モンテーニュって、あんまり好きなタイプじゃないなぁ、と思う。その親密さというのは、まるで同じクラスの男の子を品定めるような感覚で、「ちょっとめんどくさいタイプよね」なんてふうに思うってこと。
彼の繊細さは、そうめったにではないけれど、今までに遭遇したことのあるものだ。女のひとに、その繊細さやある種の潔癖性を認めたことは一度もない。厳密にいうと、男のひとにも。その片鱗を漂わせていたのは、ほんの数人の男の子だけだった。
モンテーニュの、事象を一から十まで考察し、批判ないし賞賛を冗長に書き連ねなければ気が済まない性質を(モラリストっていってしまったほうが早いかな)、間違いなく女のひとは持ち合わせていない。わたしの知りうる限りの女の子にこの本を読ませても、きっと「こんなことどうでもいいじゃん」と一蹴するにきまっている。正直に打ち明けると、わたしも何度もそんな気分になった。このひと、さっさと隠居暮らししながら、こんなに世間のことああだこうだ言うなんて。と、(もちろん恐れ入ってですが)思ったりもしたけれど、読み終えてみると、モンテーニュのことを、まあ嫌いではないのよねと結論づけられる。

全体を通じて、ヨーロッパ古典文学をろくに読んでいないので、しょっちゅう注釈をチェックしなければいけず、本筋よりもそれにずいぶんと手こずった。今年じゅうにホメロスくらいは読んでみよう。

二十六章の『子供の教育について』は、痛いところをつかれる、という印象を抱くのではないだろうか。読みながら、教師に叱られているような気持ちになってしまった。彼がことあるごとに、自分の記憶力が悪いと嘆くのも、あまりにうさんくさいし、ちょっとした自己嫌悪を感じてしまう。彼が記憶力がないというなら、わたしの脳って、きっと重篤なんだなぁ。
もしわたしも親になったら、ちょっとだけでもモンテーニュ式の教育をほどこしてみようと小さく決意した。
それとやっぱり、いちばん印象深かったのは二十八章の『友情について』。
フェミニストはきっと糾弾するだろうけれど、わたしは彼の言わんとすることがとても自然に感じられる。わたし自身、あまり強烈な友情に出会ったことがない。ましてや、ここに定義された友情などを、一度も感じたことがないし、無縁のものに感じる。もちろん昔から、この章に長々と語られたような、おとぎ話のような友情に憧れてきたけれど、わたしの人生がそういった対人関係を授かるなんて、起こりようのない奇跡だと思う。

といっても、モンテーニュは、当初、エセーの中心部をまるまるラ・ボエシーの詩で埋めていたらしいけれど、晩年にそれを削ったというんだから、彼がどこまで、自身の心情を慎重に適切にこの二十八章で語ったのかは、神のみぞ知るところだけれど。